『ウィキッド ふたりの魔女』が描く“動揺”と“葛藤” 作品が長年愛されてきた理由を考える

『ウィキッド ふたりの魔女』が映す複雑さ

 『ウィキッド ふたりの魔女』が、オープニング週末3日間の動員32万1000人、興収5億1900円を記録し、実写洋画作品として久々のヒットを叩き出している。第97回アカデミー賞でも衣装賞とプロダクションデザイン賞を受賞し、エルファバ役のシンシア・エリヴォとグリンダ役のアリアナ・グランデによるパフォーマンスアクトも話題を呼んだ。

 あの『オズの魔法使』に登場する“西の悪い魔女”と“善い魔女グリンダ”の知られざる関係や過去に迫る本作は、1995年に刊行されたグレゴリー・マグワイアの同名小説を原作とし、2003年から上演が始まったブロードウェイ・ミュージカルを基に作られている。なんといっても印象的なのが、この作品を観て多くの人が涙していることだ。試写と劇場公開後の2回本作を観たが、どちらも大きく2つのシーンにおいて、暗闇の中で誰かが必死に涙を堪えていて、それでも溢れてしまっているような音が聞こえた。かくゆう私もそのシーンで泣きじゃくってしまったのだけれど。

 一つはダンスクラブ「スターダスト」でのシークエンス、もう一つはラストの「Defying Gravity」歌唱シーンである。簡単に言ってしまえば、前者はエルファバ(シンシア・エリヴォ)とグリンダ(アリアナ・グランデ)が打ち解けたことに、後者はエルファバの抑圧からの解放と、グリンダとの友情に心揺さぶられるのだ。しかし、その涙の理由を「感動したから」の一言に収められない複雑さ、ゆえのカタルシスこそが『ウィキッド』の奥深さであり、長年愛されてきた要因ではないだろうか。ではどう複雑なのか、そしてそこに絡んでくる“善悪”という本作のテーマを考えていきたい。

※本稿は『ウィキッド ふたりの魔女』ラストシーンまでのネタバレが記載されています。

“善き行い”とは

 グリンダは果たして“善い魔女”なのだろうか。それは本作を通してずっと抱いていた疑問だった。これは『オズの魔法使』を観た時にも感じた違和感なのだが、本作でのグリンダもアリアナ・グランデの素晴らしい演技のおかげでチャーミングかつコミカルな役を保っているものの、特に物語の前半でやっていることは単なるいじめに過ぎない。

 エルファバは最初、グリンダに取り立てて興味がなかった。しかしグリンダが彼女の顔を見た瞬間に驚き、開幕一番に「You’re green.(あなたって……緑色)」と人の容姿にコメントしたり、「so sorry, you have been forced to live with THIS(緑色の肌の状態で生き続けることを余儀なくされて本当にかわいそう)」とかなり失礼なことを言ったため、エルファバもイラッとして彼女の英語を訂正して、公衆の場でグリンダに恥をかかせる。ここから2人の確執は生まれ、デュエット曲「What is this feeling?」に繋がっていく。この歌曲中にエルファバはグリンダを「Blonde(字幕では「おバカ」)」と形容し、その言動に辟易としていた。グリンダも彼女を変人とみなし、とにかく2人がお互いに抱く嫌悪感を歌うのだが、そのダンスパートでグリンダを先頭にし、他の生徒たちが彼女の振り付けを真似してグリンダに攻撃的な発言をするのが印象的だ。彼らが「こんな奴に部屋を貸してあげて、ガリンダ(グリンダ)は本当に良い子!」と言うように、ここですでにグリンダに善意がなくても、彼女の行いが全て善行であるという前提ができてしまっているのがわかる。

 マダム・モリブル(ミシェル・ヨー)に気に入られたくて、そんなつもりはなかったけれど同室を許可したグリンダ。もちろん、最初から個室を予約していたのに急に部屋を半分明け渡せと言われる彼女もかわいそうだ。それでも断ることだってできたはず。彼女の行いは全て自分への見返り……自己利益あってのもので、それが“善行”と見做される。それどころか、自分の思うように事を進めるために人を操るようなこともしている(ボック(イーサン・スレイター)にネッサローズ(マリッサ・ボーディ)を踊りに誘うように仕向けるなど)。こういう女子、クラスにいた。

 一方、エルファバは自分自身のことに集中して勤勉なだけでなく、ヤギのディラモンド教授(ピーター・ディンクレイジ)が困っている時に唯一そばに駆け寄るなどの優しさを見せる。幼少期にいじめっ子のせいで泣いたネッサローズのために怒ったり、妹を泣かせたと父親が勘違いして彼女を叱っても黙ったままだったり。のちにオズの魔法使い(ジェフ・ゴールドブラム)と出会った際に、自分の肌の色を変えてもらう願いを捨てて動物たちを助けることをお願いするように、彼女の行いには自分への利益はおろか、自己犠牲の精神さえ垣間見えるのだ。

 そうやって抑圧の中で耐えに耐え続けながらも、他者への気遣いを見返りも求めずに行えるエルファバ。しかし、では自己犠牲を伴う行いこそが“善行”だとも簡単には言えない。それは自己犠牲を美徳として肯定することになってしまうからだ。“善き行い”とは何か、善人や悪人の定義が難しいようにこれも簡単に答えられない問いになっている。その複雑さは、ダンスクラブのシークエンスでもより際立って描かれていた。

なぜあのダンスシーンが泣けるのか

 ダンスクラブのシーンが悲しいのは、エルファバにとって彼女がこれまで受けてきた不当な扱いの積み重なりが一種のピークを迎えるからだ。グリンダはおばあさんがくれた真っ黒な帽子を醜いと笑う同級生に少し戸惑いながら、それをあげることができるほど誰かを憎んでいないと笑いながら話す。もしかしたら、本当はグリンダだってあの帽子が嫌いじゃなかったのかもしれない。おばあさんからもらった大切な帽子だったのかもしれない。それでも同級生に茶化される要素は、“ポピュラー”で居続けるためには排除しなければいけない。そして悪ふざけでエルファバに「黒がトレンド」「あなたによく似合う」と捲し立てて、皆が笑う帽子をあげるのだ。その帽子を被れば笑い物になっていたはずの自分の“スケープゴート”にするかのように。

 一方、エルファバはネッサローズとボックの間を取り持ってくれたこと(経緯は知らないが、結果的に妹が幸せそうにしていること)への感謝の気持ちを抱いていたこともあって、素直にグリンダから帽子を受け取っただけでなくマダム・モリブルに口利きもする。これまでの過去を考えると、誰かから何かをプレゼントされたこともないかもしれない。純粋に嬉しかったはずなのだ。だから人生で初めてパーティに行った。すると、人が自分を見て戸惑い笑う。そんな経験はこれまで何回もあったことだが、誰かが「何あの醜い帽子」と言う言葉を聞いて、グリンダに対して淡い期待を抱いたエルファバは、これまでに比べ一番傷ついたことだろう。 

 集団から拒絶され続けてきた彼女は、「The Wizard and I」で歌うようにいつかは大衆に受け入れられ、愛されることを夢見ている。承認欲求は常にそこにあった。だからこそ、ダンスクラブで向けられた眼差しは彼女を傷つけ、エルファバはもう集団の輪に入ることを諦めるかのように一人、誰にも理解されない踊りを踊る。あれは彼女を理解しようとしてこなかった彼らに対する拒絶のステートメントだ。しかし、マダム・モリブルからエルファバが自分のためにしてくれたことを聞いたグリンダは尚更悪い気になり、彼女の前に一歩踏みだす。

 結果論だけで言えば、そもそもこの状況を生み出した張本人が救世主になる展開でもある。しかし“人気者”の地位を脅かす行いだとわかっていながらエルファバと共に踊った、この事実が大切ではないだろうか。グリンダの行為を偽善と見ることもできるかもしれない。それでも、誰も近づいてこようとさえしなかったエルファバにとって、どんな形でも涙を拭って自分と踊ってくれる人は未だかつていなかった。その行為がどれだけ彼女にとって必要だったことか。そして本当は自分のものだった帽子を被って笑われる彼女を抱きしめる行為は、人の目を気にして祖母の持ち物を大切にできなかった自分や同級生に茶化された自分を抱きしめる行為でもあって、そこにも少し感傷的になってしまう。

 彼女を抱きしめるグリンダと抱きしめ返すエルファバ。このシーンが力強いのは、そういった複雑で名状し難くも、どこか私たちの記憶の中に覚えのある感情を鮮明に映しているからではないだろうか。

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