濱口竜介は“映画”とどう向き合っているのか 著書『他なる映画と』に込めた思いを聞く
映画監督・濱口竜介の著書『他(た)なる映画と』が「1」と「2」の2冊でインスクリプトより刊行された。「映画講座」篇の「1」には、濱口が過去に行ったレクチャーや講演がまとめられ、「映画批評」篇の「2」には、これまで発表してきた映画評や監督論が収録されている。いま、もっとも新作が待ち望まれている監督である濱口は、映画とどう向き合い、何を考えているのか。濱口竜介へのインタビューを通して、その思考の一端を覗き見た。
「映画講座」篇の「1」と「映画批評」篇の「2」に分けられた理由
――本書『他なる映画と』は「1」と「2」の2冊に分かれていますが、こういう形のまとめ方になったのはどのような理由からだったのでしょう?
濱口竜介(以下、濱口):「まえがき」にも書きましたが、「1」は、これまでいろいろなところでやってきた、映画に関するレクチャーの「読み上げ原稿」が基になっています。取り上げる映画を観ていない人もいる、という状況の中で話していることが多いので、映画の抜粋を実際に観ていただきながらのレクチャーでした。「1」の後ろのほうに入っている『悲情城市』と『東京物語』の講座は、それぞれの上映後に話したものですけれど、その場合も予備知識がない人にもわかりやすいような話し方を心掛けていました。その一方で、「2」にまとめた文章は、書き下ろしもありますけど、大体の場合は与えられたお題というものが、その原稿を依頼してくれた編集者の方からまずありました。ですから、その作品を観ていることを、もしくはその映画を観ながら読むことを前提として書いたものが多いわけです。なので、「1」と「2」とでは、文章としてまったく性格が違うと言いますか、機能が違います。どちらかというと「2」の文章のほうが、映画そのものの中に入っていく、それぞれの映画の中により切り込んでいきながら書いているところがありますね。
――「1」に収録されたレクチャーの中でも、本書のタイトルにもなった「他なる映画と」と題された映画講座が、まずはたいへん興味深かったです。そもそもどういう経緯で開かれた講座だったのでしょう?
濱口:「仙台短篇映画祭」などの企画運営をされてきた菅原睦子さんという方が、仙台に映画監督や批評家を招いて「映画のみかた」という講座を不定期で開かれていて、私にもご依頼をいただいたんです。「濱口さんには3回やってほしいんです」と言われて、なんという無茶ぶりと思いつつ、お受けしました。
――その全3回の講座が、冒頭から200ページ以上にわたって展開されます。かなり長時間のレクチャーですね。
濱口:それぞれ3時間近く、3回合わせたら10時間程度でしょうか。それくらいの話をするとなると、構成も順序立てて考えないといけない。お客さんとして想定していたのは、おそらくそこまで映画に詳しくない人であって、そういう方たちが途中でつまらなそうにしているのを見るのは、自分としてもつらい。だから、何の知識がなかったとしても、順を追って楽しんでいけるように、わかってもらえるように、というつもりで準備しました。そういう構えで話したものですし、映画についての自分の体験をイチから掘り返すような講座でもありましたので、今回の本のいちばん最初に置くのがいいだろうと考えました。
――「映画の、ショットについて」「映画の、からだについて」「映画の、演技と演出について」という3回に分けられたその仙台の講座は、過去のさまざまな映画の具体的なシーンを参照しながら進められていて、濱口さん自身がどのような観点から映画を観てきたのかがわかる、非常に面白いものとなっていました。
濱口:ありがとうございます。その講座は4カ月に一度でしたので、準備の時間もそれなりにあって、大体の見通しもあらかじめ立てていたんですけど、3回目の「演技と演出について」になると、話そうしていることの多くが「推論」にもとづいていて、ただ、それが自分の単なる妄想などではなく、ある程度の説得力をもったものにするためにも、いろいろと新たに「証拠集め」をしないといけないところもあり、時間は掛けました。
――第3回で取り上げられる小津安二郎『晩春』、溝口健二『近松物語』、黒沢清『CURE』については、シナリオを参照しつつ、それと実際の映画のシーンとを比較しての、かなり詳細な分析がなされています。
濱口:なので、時間を掛けて準備したのはもちろんですが、たとえそういった作業のなかで、自分が感じた何かを見つけられなかったとしても、それに費やした時間が自分にとってプラスになるであろうという作品を、とくに第3回では選んでいますね。
――その分析の手さばきが、まるで映画研究者のようでした。
濱口:いや、そのようなものではないと思います。自分は研究者肌ではありませんし、端的に性に合わないと感じているところがあります。私の場合は、研究者ではなく、あくまで一人の実作者として、ある程度無責任に「自分はこう思っている」ということをお話ししています。そのときに、「実際こうなっていますよね?」と示せるのが映画の強みですよね。映画の場合、実際にこういうものが映っていて、こういう音が聴こえる、ということが確実に言えるわけです。脚本段階ではどうなっていたかも、その脚本が残っていれば検証できる。要は「フォルム」としてこうなっているということが言える。結局、映画制作というものはフォルムを扱う仕事であって、自分が映画を作っていくさいにもそこが大事なことなので、それを実際に見せるという必要があるし、だから「証拠集め」もする。その「フォルム」へのこだわりは研究者ともクロスオーバーする地点なのかもしれません。
――あくまでも実作者として、自作ではない作品を読み解きながら、映画の「見方」について語っているということですね。
濱口:そうですね。実作者の感覚として「一体どうやったらこんなものができるんだろう?」と思うような映画を、基本的には選んでいます。ただ、何て言うんですかね……こういう見方があってくれないと自分も困るというところが、多少はあるのかもしれません。こういう見方をしてくれる人が増えると、自分が映画を作っていくうえでも、非常に助かると言いますか。
――ある種の啓蒙活動のような……。
濱口:啓蒙というよりも、単純に自分が驚いてきたものをここではまず提示しているんです。本の中でも話しているように、私は東京藝大の大学院で黒沢清さんの講義を受けていたんですが、そういう場で映画を見せるとき、黒沢さんってみんなの前で驚いてみせるんですよ。いちばん記憶しているのは、『宇宙戦争』で、トライポッドにロケットランチャーが当たるシーンを見せながら、黒沢さんが「当たった!って思いますよね」と。ああ、黒沢さんはここに驚くのか!と(笑)。でもそれは、黒沢さんが作っているものを見ていくと、だんだんわかってくる。ずっとシールドに阻まれていたところにヒョロヒョロしたロケットランチャーが着弾する、その瞬間までがワンショットのうちに描かれていることに驚けるか驚けないか、ということが黒沢さんのような映画を作るうえでは、間違いなく重要である。そういうことがだんだん腑に落ちてくるんです。なので自分も、そうやって人前で驚きをパフォームするといいんじゃないか、とは思っていました。
――濱口さんご自身が受けた衝撃を、講座を聞きにきてくれた人たちにも伝えたいと。
濱口:そうですね。ただ、むしろ他の人に伝えなくてはならないという状況を作ることで、その準備のために、自分が興味を持っていたものを今までにないレベルで見てみる、聴いてみる機会として、この講座を捉えていたというのが大きかったとは思います。だから、このレクチャーを聴いてくれた人にすぐに「映画って面白いんだ!」みたいなことが起こってくれることをそこまで期待しているわけではなくて、単純に自分のためにやっている。そのための社会的プレッシャーを自分にかける場がこの講座であったということで、そういう機会をいただけたのはありがたいことでした。
――驚いたのは、この仙台の映画講座は2018年なんですね。濱口監督にとって初の商業映画となった『寝ても覚めても』が公開された年です。その頃からすでに、ここまでしっかりした映画理論や方法論を持っておられた。その後の濱口さんの活躍から逆算して、改めて深く納得してしまいました。
濱口:でも、ここに書かれているのは「映画理論」というほどのものではまったくないですよ。その場に応じてやってきた、ある種のでっち上げみたいなところが無きにしも非ず(笑)。ただ、それがすべてフィクションであってはいけないとは思っていて……。映画との関係にも似ていますよね。それが本当なのかどうかというのは、もうまったくわからないし、自分でも究極的にはあまり興味がない。せっかくだから面白い体験をしてもらおうと、レクチャーであれ批評的な文章であれ、そう思いながら書いているところはあります。