アリ・アスター監督の“創作メソッド”を紐解く 『ボーはおそれている』の製作に至るまで
「映画作りはとにもかくにもカタルシスが大事だ。それにセラピー効果もある」
2018年公開の『ヘレディタリー/継承』で本格的な長編映画監督デビューを果たしたフィルムメイカー、アリ・アスターがIndieWire誌へのインタビューで語った言葉だ。監督作は長編3作と、フィルモグラフィーとしてはまだ新進気鋭と言えるが、手がけてきた短編映画の数を考えると、映画作りにおいて全くの新人とは言えない。そんな稀有な存在であるアスターにとって、『ボーはおそれている』(2023年)はおそらく最もこだわった作品だ。
『ボーはおそれている』の製作に何年もかかった理由
母を訪れに実家に向かうはずだった主人公のボー(ホアキン・フェニックス)が、玄関に差したまま放置してしまった家の鍵を失くして身動きが取れなくなってしまう。それどころか、その鍵を奪った誰かがいつでも家の中に入ってきてしまう可能性に怯えることに。そんなプロットラインの『Beau』という短編映画をアスターが発表したのは2011年のこと。この短編のあらすじがそのまま最新作『ボーはおそれている』に活かされているわけだが、短編としてではなくこの長編作品としての構想もすでにその時点でアスターの中には存在していた。
『哀れなるものたち』などのヨルゴス・ランティモス監督との対談で、10年以上前に書き上げた初稿はわずか半年、2019年にリライトした際には9カ月かかったと語っているアスター(※1)。映画のファーストセクション(アパート周辺)は初稿から全く変わらず、郊外セクション(ロジャーの家)や最後の実家セクションも初稿と大体同じだったそうだが、森セクションでボーが劇に“入っていく”シーンと最後の裁判シーンは完全に新しく追記された部分だという。本当はこれが彼にとっての長編第1作目になる予定だったが、同じ学校を卒業した気の知れているプロデューサーに話を持ちかけても彼女が首を縦に振ることはなかった。本人はそれにがっかりするも、その後『ヘレディタリー/継承』で華々しくデビューを果たし、その後『ミッドサマー』(2019年)でも興行的な成功を収めたため、悲願の『ボーはおそれている』に制作費3500万ドル、前作の4倍もの予算が下りたのだった。
ユダヤ人男性の物語として
ホアキン・フェニックスの体当たり演技が光る本作は、徹頭徹尾“ユダヤ人男性が直面する苦悩の物語”としての顔を持っている。例えば、割礼への強いトラウマと執着を思わせる男根への言及、「水晶の夜」を彷彿とさせる割れたガラスなどのユダヤ的なモチーフがちりばめられているほか、ボーが母の葬式に一刻も早く辿り着かなければならない、そして辿り着けないことへの糾弾と罪悪感は、通夜がなく、故人が亡くなってから24時間以内(できるだけ早く)に葬儀を行うユダヤ教の葬式への考え(シヴァ)に基づいている。
加えて、ボーが母モナ(パティ・ルポーン)に贈ろうとした聖母子像のような置物が“壊れてしまう”ことも、実はユダヤ的な描写なのだ。本作でモナはまるで“神”のように息子の世界を支配し、息子のボーにとっても母は“神”のような存在になっている。アスター監督はこれについてインタビューで「母親が神の位置に置き換わってしまうことは非常にユダヤ的な発想だ」と語っており(※2)、ボーがこの母子像にモナを投影していることが窺える。しかし、ユダヤ教では偶像崇拝が禁止されており、あの置物が壊れなければいけない理由になっているのだ。
「ユダヤ人の『ロード・オブ・ザ・リング』」と本作を形容するアスターだが、彼自信がユダヤ系の家庭に生まれた長男であるが故に、本人の抱える悩みが本作に投影されているのかを考えてしまわざるを得ない。これは過去作『ヘレディタリー/継承』や『ミッドサマー』にも感じたことだが、実際にアスターは前者を「自分の家族がどん底を味わっていて、もはや呪われているのかとさえ思った」時の気持ちが、後者は「彼女との手痛い失恋」の記憶を活かした作品として作っているのだから無理もないだろう。
特に「母親」の要素は、『ヘレディタリー/継承』と『ボーはおそれている』において強大で、主人公を脅かす存在として描かれているのが興味深い。この2作を観ると、お節介にも「アリ・アスター、お母さんと関係悪いのかな」なんて心配してしまうかもしれないが、意外と(?)アスターと彼の母は仲が良い。むしろ彼女がアスターを映画の道に導いた人間と言っても過言ではないのだ。