『関心領域』で何よりも恐ろしい“当たり前の事実” ジョナサン・グレイザーの演出を考察
ここのところホラー映画を観る機会が増えたのだが、至極あたりまえのように、昔観た名作と呼ばれる類の作品は観返してみても確かに怖いし、観ていなかった近年の作品でも充分に怖いものがいくつもある。しかしながら、どれにも共通しているのは“視覚的に怖い”ということであり、どれも一瞬だけの突き抜ける刺激というか、観る前から“視覚的に怖い”ものが来るとわかったうえで、それを甘んじて享受する構えがこちらにできている以上、その怖さがいつまでも脳裏に残存することは極めて稀である。
それに対して、これはいわゆる“ホラー映画”としてジャンル分けされる作品ではないが、ジョナサン・グレイザーの『関心領域』という作品は、いつまでもその恐ろしさーーあるいは、おぞましさとでもいうべきだろうかーーが脳裏にこびりついて離れない。この上半期で、いや、もしかしたらここ数年で観た作品のなかでも最も恐ろしい作品であったかもしれない。あえてジャンル分けをするならば、戦争ドラマか歴史劇か。アウシュビッツ・ビルケナウ収容所の所長を務めたルドルフ・フェルディナント・ヘスの家族の生活を淡々と描いたホームドラマのような様相さえも呈している。
そもそもの話、作り手が見せたい被写体をカメラで捕まえにいき、受け手に対して提示することこそが劇映画の基本的な原理であろう。ところがこの映画における主たる被写体であるヘス一家の生活は、邸宅の室内や庭などに置かれたーーというよりももはや“仕掛けられた”カメラの慎ましいショットをもって記録される。そこには捕まえる/見せる/提示するという積極性がないにもかかわらず、やたらと高精細な映像で鮮明化させ、かつ川面を灰が流れてくるショットなどを時折入れ込みながらも、これ見よがしに“提示”をしない。冷徹でアンバランスな距離感が終始映画全体を司り、保たれ、観客に不安感を与えていくのである。
あくまでも、そこにあるのはアウシュビッツで何が起きていたのかという、ある程度かつ最低限の知識を受け手が持っているという前提のもとで成り立つ内心への働きかけであり、それをもってはじめてこの映画は広義のホラー映画へと成り代わる。もしその前提を持ち合わせていなかったら、単なる戦時下におけるブルジョワジーの愉しみのようなものを密かに覗き見しているだけの映画であり、むしろそう漠然と表層のさらに表層を掬い取っていられたほうが幸福なのかもしれないと思えてしまうほどだ。
しかしそのスクリーン上にあらわれている視覚的な長閑さを突き破るのは、他でもない“音”であり、この映画は徹底して“音”の映画であり続ける。フレーム内に映っている出来事の外側で、あの美しく整えられた庭の奥に見える壁の向こう側で、おそらく世界中の誰もが知っているアウシュビッツという空間が広がっている。銃声や悲痛な声。その遠からず近からずな距離感は、否応なく受け手である観客に“想像する”ことを要求する。皮肉なことに人間の一般的な記憶のメカニズムにおいて、聴覚で得られた情報というのは視覚よりも早く忘却されてしまうと言われている。それだけを考えれば、先述した“視覚的な怖さ”によって導かれる瞬発的な刺激よりも早く過ぎ去って然るべきものなのだが、ただそれを受け取るのではなく“想像する”というプロセスが挟まれるのだから、必然的に脳裏にこびりついてしまう。