『デデデデ』に凝縮された震災以降のサブカルチャーと表象 2024年に示した“絶対”の答え
「地球がくそヤバい!」と謳った「前章」から「君は僕の絶対だから」と宣言する「後章」へ。浅野いにおの漫画をアニメーション化した映画『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』(以下、『デデデデ』)は、原作漫画の連載がスタートした2014年から今に至るまで約10年のあいだ、日本で生きてきた僕たち/私たちが確かに見たり聞いたり感じたりしてきたことの数々が、空想科学を用いた“メタファー”としてあちこちにちりばめられた、異様に情報量の多いSF大作になっている。2011年の東日本大震災で目にしたさまざまな状景の記憶と無力感。原発と放射能の問題。不透明な政府とSNSで飛び交う流言飛語。果てはコロナ禍の不気味な静寂まで。それはもう、めまいがするほどに。とはいえ、その導入は至ってシンプルだ。あるとき突然「侵略者」とおぼしき巨大な母艦が地球にやってくる。しかし母艦は東京上空に留まったまま微動だにしない。彼らの目的は何なのか。要は、映画『インデペンデンス・デイ』(1996年)のような状況なのだけど、問題なのは「彼ら」と意思疎通が図れないことだった。とはいえ、映画『メッセージ』(2016年)のように、科学的な英知を集めて「彼ら」とのコンタクトに尽力するわけでもなく……なんとそのまま3年もの月日が流れているというのだ。「非日常」が、もはや「日常」になってしまった世界。その意味で本作は、映画『第9地区』(2009年)に近い状況と言えるかもしれない。
主人公は、東京で暮らす2人の女子高生――小山門出(幾田りら)と中川凰蘭(あの)だ。依然として遥か上空に居座ったままの母艦を見上げながら、“未来”に対する漠然とした不安を吐露するときもあるけれど、さしあたって今は特にできることもないので、彼女たちは彼女たちの仲間と共にごく普通の日常を送っている。バンドこそ組まないけれど、アニメ『けいおん!』のような女子高生たちの他愛ない「日常」――「非日常」が当たり前になった「日常」を彼女たちは謳歌しているのだ。奇矯なふるまいや過激な発言で物事を掻きまわす「おうらん/おんたん」と、そんな彼女の行動を慣れた感じで受け止める「かどで」。2人はまるで、長年連れ添ったボケとツッコミのようだ。しかし、宇宙船の墜落事故に巻き込まれ、仲間のひとりが命を落としたあたりから、彼女たちの「日常」は少しずつ変わっていく。否、「親友の死」という出来事すら、何事もなかったように飲み込んでゆく模糊とした「日常」に、彼女たちはどこか苛立ち始めているのかもしれない。そして唐突に、ある事実が明らかとなる。かどでとおんたんは、過去に「侵略者」と接触していたようなのだ。その記憶は、なぜ失われているのだろうか?
そのすべてが明らかとなる「後章」は、かどでとおんたんと仲間たちが、晴れて同じ大学へと進学するところからスタートする。大学で、なぜかオカルト研究会に入ることになってしまった彼女たちは、そこで出会った新しい仲間たちと共に、相も変わらず「非日常」な「日常」を生きている。夏休みには、研究会の夏合宿として、小田原近くの海辺の町を訪れたり。けれども、彼女たちが生きる世界は、どうにも複雑になる一方だ。東京の各地で目撃される「侵略者」たちの姿。それを駆逐しようとする自衛隊。例によって政府は、そのすべてを国民に明かすことなく、上層部の人間しか知らない“ある計画”を推し進めているようだ。多くの人は、そんな日本の異様な状況を視界の片隅には入れつつも、ときにはSNS上で交わされる流言飛語や陰謀論に惑わされながら、それぞれの「日常」を懸命に生きている。けれども、その中には「自由と民主主義のための学生緊急行動」ではないけれど、社会運動に参加する若者や、疑心暗鬼に陥り、過激な行動に出る若者たちもいて――それは間違いなく、この10年のあいだ、僕たち/私たちが見てきた「日本」だった。
ただし、「前章」で少しだけ描かれていたように、おんたんの失われた「記憶」が明らかになるきっかけとなった“謎のイケメン”と再会して以降、かどでとおんたんの物語は、徐々にその様相を変えていく。おんたんがボケでかどでがツッコミではなく、本当はその逆だったの? マルチバースの可能性。そして物語は、「君と僕との関係」や「僕の自意識の問題」が「世界の終わり」に直結する――『君の名は。』(2016年)以降、世の中を席巻していった新海誠監督の一連の映画のような、いわゆる「セカイ系」と呼ばれる物語に近似していくのだった。「もし僕のせいで、世界が滅んだらどうする?」。とはいえ、ここ10年ぐらいのあいだ、「セカイ系」と同じくらい流行ったマルチバース設定は、なかなかどうしてやっかいだ。かつて映画『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』(2018年)で、ドクター・ストレンジが見通した1400万605通りの“未来”のようにやっかいだ。なぜならそのとき“未来”は相対化され、選択可能なものになってしまうから。それが可能であるならば、これまで描いてきた“世界”は、果たして何だったのか。それがたとえ、誰にとっても確たる“未来”が見えないような、とても混沌とした“世界”だったとしても、そこに生きる人々を相対化してしまっていいのだろうか? 本作の物語は、そのクライマックスで岐路に立たされる。