『カラオケ行こ!』“仲良くなるだけ”がなぜ心に響くのか 山下敦弘監督だからこその“間”

『カラオケ行こ!』に詰まった青春の不可逆性

 合唱部の中学生男子・岡聡実(齋藤潤)とヤクザの男・成田狂児(綾野剛)が雷に打たれるようにして出会い、かなり奇妙な友情を芽生えさせていく。境遇がまるっきり異なる人物同士が出会い、そこから物語が始まっていくというのは映画やドラマの基本スタイル。大抵はどちらかに引っ張られるようにして何らかの“変化”の道のりを辿るというのがお決まりのパターンともいえるのだが、この『カラオケ行こ!』という映画はそのパターンを選ばない。

 ただ仲良くなる。もはやそれだけであり、そもそも友情というものはそれだけでいい。そこにはヤクザ側の「どうしても歌が上手くなりたい」という明瞭明快な目的が存在しているわけだが、実際のところ、映画を観ても彼がこの特訓を通して歌が上手くなったのかどうかは描かれずじまいであり、すなわちそれはまったくもって重要ではないということであろう。映画は必ずしも変化する人を描かなくていいわけだし、人は必ずしも変化しなくてはいけないというわけでもないのである。

 一方で中学生のほうは、成長という誰しもが抗うことのできない変化のさなかに立たされることになる。団地で両親と暮らし、自分の部屋もあって両親と一緒にのんびりと食卓を囲むことができる平穏な家庭環境のなかにあり、部活も頑張り男女問わず友人がいて、いじめられているわけでも教師から目をつけられているわけでもない。そんな平凡な少年が、ただひたすら“声変わり”という通過儀礼によって不安定な心情を抱かされ、そこにヤクザとの交流という異物が混入することだけで、こんなにも魅力的な物語ができあがるとは。

 メガホンをとった山下敦弘といえば、これまで向井康介や渡辺あや、いまおかしんじといった優秀な脚本家たちとコラボレーションを果たし、それぞれの脚本家のカラーを丁寧に守り抜いたままで独自のリズムとピッチを刻んできた卓越した職人監督である。前作の『1秒先の彼』では台湾のチェン・ユーシュンの作りだしたシュールな世界観を京都の街並みに落とし込んだ宮藤官九郎の脚色を見事にさばき、今作ではオフビートな空気をただよわす和山やまの原作漫画を野木亜紀子の脚色を通してスクリーン上に具現化させていく。

 綾野剛演じるヤクザと、齋藤潤という驚くべき新星が演じる中学生が繰り出す巧妙な掛け合いは、もっぱら和山ワールドと野木脚本の融合によって為せる技であるが、同時にこれが漫才のようなテンポ感をもって成立していくためには、山下のタッチと巧妙にシンクロを果たす“間”の取り方が大きく影響する。さらに、漫画でも脚本でも導き出すことのできない圧倒的に映画らしい部分を担うのは、劇中で幾度となく訪れる“カラオケ”のシーンに他ならない。

映画『カラオケ行こ!』成田狂児(綾野剛)の「紅」熱唱シーン!

 ヤクザが馬鹿の一つ覚えのように何度も繰り返し歌うX JAPANの「紅」。中学生がヤクザの声質にあった楽曲としてピックアップした、寺尾聰の「ルビーの指環」や奥田民生の「マシマロ」を歌ったと思えば、合間合間に必ず「紅」の絶叫が挟み込まれる。カラオケボックスに行ったことがある人ならばわかるであろう、演奏停止ボタンを押した/押されたときの一瞬の静寂が、確実に映画のユーモアを司る“間”を形成する存在として活用され、ヤクザと中学生の心理的な距離の接近を示す要素としても機能するのである。

 そもそもの話をすれば、“歌をうたう”というアクション自体が、映画がトーキーになったことのメリットを最大限に果たす役割を担った極めて映画的なものであることも、このシチュエーションの魅力を高めているといえよう。ただ歌をうたう人物をのんべんだらりと映すわけでも、陽気な歌を聴かせているわけでもない。カラオケボックスという密室特有の音の反響に、スクリーンのなかにあるカラオケ画面というもうひとつの画面に、そこを流れる歌詞のテロップ。聴覚的にも視覚的にも充分すぎるほどの映画的要素がこの一連には存在している。

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