シルヴェスター・スタローンの精神は『ロッキー』そのもの その生き方が示す人生の希望
世間の荒波にさらされて人生に迷う不器用な男が、それでも愚直に前へと進もうとする……。そんな『ロッキー』の主人公像は、まさにスライそのものだ。そこには負け続けてきた者にしか語れない、真実の苦しみや絶望がある。そして結末には、スライが子ども時代に家庭生活で得ることのできなかった愛が与えられることとなる。
この脚本は高く評価され、他の人気ある俳優に演じさせようと映画会社は脚本を買い取ろうとしたが、スライは自分の役だとして、頑として譲らなかった。企画が頓挫してしまうリスクを承知で。その裏には、自分の人生に悔いを残したくないと思いからなのだという。この無謀な挑戦心や、自身の尊厳を守ろうとする精神こそ、『ロッキー』そのものなのだ。
負け続けた男の再起の物語である『ロッキー』は、多くの観客の心を打ち、無名の俳優スタローンは、一気に絶大な人気を得ることになる。その後、『ロッキー』はスライのライフワークのような長大なシリーズになっていく。そしてそれは、彼自身のそのときの人生の課題を映し出すものとなったという話が興味深い。
『ロッキー』同様に人気となった『ランボー』シリーズにも共通しているのは、陰惨な世界にも希望はあるというメッセージである。だがそれは、スライがポジティブで能天気な性格だったからではない。むしろ、厳しい現実や悲しい過去を経て、世界に対する悲観的な見方があったからこそ、観客に希望を提示したいという思いがあったと考えられるのである。幼い日の彼を映画が束の間救ってくれたように、映画はあくまで夢を提供するものだという、ロマンティックでありながらきわめて現実的な思想が、彼の作品の根底にある。
アクションスターとして、シュワルツェネッガーとヒット作競争を繰り広げた時代は、スライが最も脚光を浴びた栄光の日々だと考えられるが、彼自身はたいして役作りもせず肉体的な挑戦ばかりし続ける仕事に充実感を覚えてはおらず、「こんなことはやめなければ」と思っていたのだという。自分の業績をこのように語ってしまうところが、彼の真摯な生き方だといえるし、やはり悲観的な面なのだととらえることができる。
そんなスライ独特の考え方のなかから生み出されたのが、現在も継続している『エクスペンダブルズ』シリーズだ。アクション俳優の立場を「消耗品(エクスペンダブル)」と自嘲しながら、自身を含め、旬が過ぎたと考えられているアクション俳優たちを集めて、商業作のなかでリサイクルするのである。このメタフィジックかつ批評的な視点は非常に現代的で、このアイデアはスライ自身がまだまだ業界でやれることがあることを示し、さまざまな俳優にいろいろな可能性があることを示すことになった。
どん底からの奮闘。失墜からの再起。映画の主人公ロッキーはそれを成し遂げ、スライもまた自分の人生においてそれを何度も体現している。彼の存在自体が、人は何かをやり遂げることができるし、何度でもやり直すことができるという、一つの希望として映るはずだ。
本作では、スライ自身が誇りに思っているという『ロッキー』第6作の、主人公のセリフが紹介される。「世界は汚くて卑劣な場所だ。どんなに強くても倒されてしまう。でも立たなければ永久に“人生”には敵わない。大事なのは強く殴ることじゃない。どんなに強く殴られても、耐えて前に進めるかだ」こんな直接的なセリフを言わせてしまうというのは、とてもスマートだとは言えない。だが、これがスライの人生そのものであり、彼の不器用だが熱い人間性そのものなのだ。だからこそ、この言葉に価値が宿るということが、本作を鑑賞すればより深く理解できるだろう。
■配信情報
『スライ:スタローンの物語』
Netflixにて独占配信中