『ミッション:インポッシブル/デッドレコニング PART ONE』徹底考察 第1作との深い関係

 面白いのは、“それ”もまたイーサンの性質を認知し、自分の脅威となるだろうことを理解しているということだ。“それ”は、IMFの通信手段に侵入しミッションを撹乱するばかりでなく、イーサンの過去の因縁の相手である謎の男ガブリエル(イーサイ・モラレス)を膨大な人物データから選出し、イーサンの天敵としてぶつけるという判断をする。

 これによってイーサン、ルーサー(ヴィング・レイムス)、ベンジー(サイモン・ペッグ)、そしてイルサ・ファウスト(レベッカ・ファーガソン)というコアとなるチームは、ガブリエルと“コミュニティ”に挟まれながら、兵器の謎に迫る二対の“キー”奪取を達成しなければならなくなるのだ。そこに、前作登場した武器商人の“ホワイト・ウィドウ”(ヴァネッサ・カービー)、偶然事態に介入することになる泥棒のグレース(ヘイリー・アトウェル)らが加わり、それぞれの思惑がぶつかりながら、世界をめぐる争奪戦は激化していく。

 今回の代表的なロケ地は、アブダビのリワ砂漠や世界最大の空港ターミナルとなる「ミッドフィールド・ターミナル」から始まり、ローマの市街地や「スペイン階段」、ヴェネチアの運河と「グリッティパレス」、『007/ノー・タイム・トゥ・ダイ』(2021年)でもロケが行われたノルウェーのムーレ・オ・ロムスダール県が擁する、雄大な山脈や、イギリスはダービーシャー州の採石場などだ。

 さまざまなシーンのなかでも本作最大の見どころとなるのは、もちろんトム・クルーズ本人が挑む、ノルウェーでの大規模なスタント。断崖絶壁から猛スピードでバイクジャンプをおこない、生身のまま落下していきパラシュートを自身で開くという、非常に危険なアクションだ。この低高度からのジャンプは、山肌にぶつかる危険や、パラシュートを開くタイミングのシビアさがネックとなる。それでもトムは、練習として500回以上のスカイダイビングと1万3000回ものモトクロスジャンプをこなし、実際の撮影時にはベストショットのために1日で6回も断崖からバイクジャンプするという、飽くなき情熱で信じ難い挑戦を達成している。

 さらに驚かされるのは、この大規模なスタントを成功させた撮影初日の時点で、脚本が完成してなかったということだ。つまり、物語を構築するよりも前にスタントの構想が存在し、そこから展開の辻褄を合わせていったということだ。これは、例えば日本の宮﨑駿監督がイメージボードで自分が表現したいものを描いてから物語を作り上げていく製作手法に似ているかもしれない。

 プロデューサーでもあるトム・クルーズは、おそらく自分がいま挑戦できる最高のスタントは何か、観客に見せられる最大のものとは何かを第一に考えているということなのだろう。それだけでなくトムは、いまはアイデアを考えついたそばから監督に電話をかけていると伝えられている。この無理難題に対応できるのは、演出と脚本執筆の両方を手がけることができ、トムの性質を理解しながらあらゆる要求に対処できるクリストファー・マッカリー監督ただ一人に他ならない。

 また前作公開時、「明らかに何かが変? 『ミッション:インポッシブル/フォールアウト』の隠された魅力を徹底解説」でも解説したように、マッカリー監督は同時にクラシック映画ファンでもある。これまでも『ミッション:インポッシブル/ ローグネイション』(2015年)、『ミッション:インポッシブル/フォールアウト』で、『カサブランカ』(1942年)や『めまい』(1958年)などのオマージュを、演出や脚本に含ませているのだ。トム・クルーズは、現在の脚本が定まらない状態で撮影を進めるという製作手法を、『カサブランカ』と同様だと例えている。マッカリー監督が、ポジティブにこの異常事態に対処できているのは、このような背景があるからなのかもしれない。

明らかに何かが変? 『ミッション:インポッシブル/フォールアウト』の隠された魅力を徹底解説

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 本作でも、やはり通底しているのはクラシック映画の美学である。イーサンに降りかかる悲劇を予感させる、不気味な夜のヴェネチアのシークエンスは、本作のなかでも印象深い。とくに、ごく狭い路地でガブリエルからの刺客“パリス”(ポム・クレメンティエフ)らに前後を挟まれ、イーサンが進退きわまる場面の不気味さは素晴らしい。このような雰囲気の醸成には、ニコラス・ローグ監督の『赤い影』(1973年)が用いられていることが伝えられている。この作品は、ドナルド・サザーランド演じる主人公が予言に導かれるように窮地へと陥っていく様子が、断続的に挟まれるヴェネチアの不穏な風景とともに表現されていく。

 ここでイーサンを追いつめていくガブリエルが象徴するのは“運命”だ。『赤い影』の悲劇同様、イーサンにも不気味な予言が投げかけられ、“それ”の導きによって事態はおそろしい結果を迎えることとなる。第1作から描かれているように、これまでイーサン・ハントは、アメリカや世界の窮地を救うミッションに身を投じる度、同時に発生する仲間の犠牲を乗り越えてきている。

 トムはそれでも本作で、「君の命は、常に自分の命よりも大事だ」と、仲間の一人に語りかける。それは同時に、降りかかり続ける痛みに耐えるため、自分に言い聞かせているようでもある。前作から継続されている、このイーサンの内面における運命との戦いは、情報兵器の生み出す作為的なものとなって、本作ではさらに具体的な脅威へと変化している。なるほど、これは一作では収まりがつかないテーマであるかもしれない。このように前後編スタイルに意義を持たせてしまう、クリストファー・マッカリー脚本の調整感覚には、さすが冴えたものがある。

 さらに運命論の脅威を強調しているのは、本作で“それ”を想起させるものとして表現したと思われる、機械的な眼球のようなイメージ映像である。これは、やはり前作からモチーフとなっている『めまい』に見られた、映画に初めてコンピューター映像を取り入れたという斬新なタイトルバックに類似したものだと考えられる。そして『めまい』といえば、ブロンドとブルネットの髪を持つ二人の女性が登場する「ダブルイメージ」だ。ここでも意図的に死の淵に立たされる二人の女性が、男を翻弄することになる。

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