『神は見返りを求める』は誰もが表現者の現代人必見 スマホという“凶器”を理解するために
「ペンは剣よりも強し」という格言がある。言論は武力よりも世の中を動かす力がある、という意味だ。
しかし、現代社会にはペンよりもっと強い「武器」がある。スマートフォンだ。スマホはペンにも録音機にもカメラにもなり、瞬時に情報を世界に向けて発信できてしまう。
吉田恵輔監督の最新作『神は見返りを求める』は、そんなスマホを駆使する職業であるYouTuberをめぐる狂騒劇だ。YouTubeは、かつて映画やテレビに従事する一部の人間だけが可能だった映像による情報発信を急速に大衆化させ、YouTuberという新たな職業を芸能人やプロスポーツ選手以上に子供の憧れの存在へと押し上げた。
本作は、そんな「夢のある」YouTuberの表と裏を描き、スマホという「凶器」の恐ろしさとともに、誰もが表現者になれる時代を生きる人々の光と影を示した作品だ。
YouTubeは夢見る権利を万人に与えた?
イベント会社勤務の田母神(ムロツヨシ)は、合コンで売れないYouTuberの「ゆりちゃん(岸井ゆきの)」に出会う。登録者数が伸びないことに悩むゆりちゃんを、田母神は手伝い、そのかいもあって少しずつ再生回数を稼げるようになっていく。しかし、ゆりちゃんは人気YouTuberとコラボする機会を得てブレイクすると、田母神の「センスのなさ」が邪魔になり邪険に扱うようになっていく。当初は、無償で手伝ってくれる田母神を「神」だと言っていたゆりちゃんだが、手のひら返し、田母神はそれをきっかけに豹変する。
人気YouTuberを夢見るゆりちゃんは、典型的なワナビーだ。有名になりたいが、表現したいものを持っているわけではない。こういう人物は昔からいて現代特有のものではない。だが、YouTubeのようなプラットフォームがワナビーを増加させているのだろう。
YouTubeは、特別な才能や持って生まれた美貌がなくても有名になれるかもしれないという夢を多くの若者に抱かせている。実際に、歌唱力も演技力もない、美男美女でもない人たちがYouTubeで有名になっている(実際には、そうした特別さがあった方が有利だが)。本作のゆりちゃんも、自分一人ではロクなアイディアを思いつかないし、特殊な才能も持っていない、どこにでも転がっている存在だ。
誰だってひとかどの人物になってみたい。しかし、誰もが秀でた才能を持っているわけではない。それでも夢見る権利は誰にでもある。YouTubeというプラットフォームは、何者でもない人々にも夢を見られるようにしたともいえる。誰もが参加できて、誰もが自由に夢を見られるYouTubeは、ある意味、民主的で素晴らしいプラットフォームだろう。
しかし、民主的でなんの参入障壁もないからこそ、YouTubeでの人気争いは熾烈だ。そして、その人気はあっさりと数値で可視化され、人の価値を簡単に値踏みできるようになった。現代人は、そんな風に日々数字でランク付けされてしまう世界を生きている。
そんな時代に、特別な能力や個性もない人間はどうサバイブしていけばいいのか。本作が見せるのは、そんな現代人の苦しさである。