『ドクター・ストレンジ/マルチバース・オブ・マッドネス』が体現したアメコミの自由さ

『ドクター・ストレンジMoM』に見た自由さ

 魔術師ドクター・ストレンジ(ベネディクト・カンバーバッチ)のところに並行宇宙(マルチバース)をまたぐ大トラブルが舞い込んでくる。時系列的に直前に当たる『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』(2022年)で「ユニバースをまたぐなよ、またぐなよ」の警告を無視して酷い目に遭ったストレンジ先生だったが、再びまたがざるを得ない状況に陥るのであった。

 アメコミ、それは自由である。完全な私事で恐縮だが、私がアメコミに驚愕したのは今から二十数年前、まだ小学生高学年だった頃の話だ。当時『マーヴル・スーパーヒーローズ VS. ストリートファイター』という対戦格闘ゲームがあった。キャプテン・アメリカ、スパイダーマン、ウルヴァリンといったマーベルのキャラと『ストリートファイター』のキャラ(そして木梨憲武)が戦うゲームである。これを機になんとな~~く「海の向こうにもマンガがあるらしい」と知り、その後に小学館集英社プロダクション、通称“小プロ”から出ている翻訳本を見つけて手に取ったのだが……ここで私はアメコミの自由さに度肝を抜かれた。本編以上に、本編に入っている大量の注釈に驚かされたのである。そして、その注釈には、日本の漫画で育った私の常識を覆すことが大量に書いてあった。

ドクター・ストレンジ/マルチバース・オブ・マッドネス

 たとえば「初代〇〇は死亡し、今は二代目」とか、「〇〇と××は交際していたが後に破局した」とか、あまりにも自由な設定が目白押しだったのである。もちろん当時の少年漫画『ドラゴンボール』や『北斗の拳』、あるいは『魁!男塾』などでキャラの生死や設定が二転三転するのには慣れていた。それでも「ここまでやっていいのか!」という新鮮な驚きがあった。日本の漫画も自由だが、アメコミも自由だったのである(自由の切り口が違っただけだ)。前置きが長くなったが、『ドクター・ストレンジ/マルチバース・オブ・マッドネス』(2022年)は、そうしたアメコミの自由さを体現した一本だ。

 現在、マーベル・シネマティック・ユニバースことMCUは巨大化する一方だ。MCU絡みのコンテンツは日増しに増加の一途を辿り、その多くが何らかの横の繋がりを持っている。もちろん、その分だけ複雑さは増すわけで……ユニバース商売、ひいてはキャラ商売をするうえで必ず起きる問題と直面していると言っていいだろう。作品単体で完結するのではなく、他作品と一緒に観ないといけない、それでは敷居が高くなるのは当然だ。本作もその問題を抱えている。

ドクター・ストレンジ/マルチバース・オブ・マッドネス

 本作も『ドクター・ストレンジ』(2017年)の続編と言うより、「MCUの最新作」だと捉えた方がいいだろう。『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』や『アベンジャーズ/エンドゲーム』(2019年)、さらにディズニープラスの配信ドラマ『ワンダヴィジョン』(2021年)を踏まえた物語になっており、これらの内容を知っていた方が間違いなく楽しめる。しかし一方で、こういった「予習」がないと理解し辛い点もあるし、逆に「予習」によって素直に納得できなくなる点もあるのも否めない(キャラの扱いが不憫すぎる的な)。そんなMCU最新作だが、それを何とかしたのが監督のサム・ライミだ。本作ではMCUの最新作として求められる要素をこなしつつ、さらに自分色に作品を染め上げ、ホラーファンタジーアクションの快作に仕上げている。

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