なぜ“実写部門”がないのか? アカデミー賞で考える、実写とアニメーションの弁証法

実写とアニメーションの弁証法

短編は長編と異なり実写とアニメーションが同等

 ここまで見てきたルールは全て長編部門に関するものだ。筆者が面白いと思うのは、短編においては実写部門が設けられている点だ。長編映画の最高賞は「best picutre」だが、短編の場合「best short picture」とは言わず「best live action short」と呼ばれるのだ。実写部門はないと先に書いたが、実はそれは長編に限った話で、短編部門では実写とアニメーションは分けられた上で、等しい存在として置かれている。上記の膨大な公式ルールの中で、実写を示す「live action」という言葉が使われているのは、短編部門と長編アニメーション部門の箇所だけである。

 短編実写部門の資格要件には、「写真技術で物理的な俳優、セット、場所、小道具を撮影した作品でドキュメンタリー以外のもの」くらいの定義しか書かれていない。これだと、本連載で紹介した「ピクシレーション」というアニメーション技法も含んでしまうし、ストップモーションも撮影はしている。真っ先に俳優を条件に挙げている点を考えると、やはり俳優が写っているかどうかが重要なのかもしれない。

 しかし、今度はどうして長編と短編で扱いが異なるのかという新たな疑問が湧いてくる。これは筆者の個人的な考えだが、短編映画の世界では実写とアニメーションは同等の存在感を有しているためにこうなっているのではないかと思われる。アヌシー国際アニメーション映画祭など、多くのアニメーション映画祭は短編を重要視してきたし、強い作家性が発揮されたアニメーション作品が短編に多かったというのは事実だろう。

実写とアニメーションの弁証法

 モーションキャプチャ―がアカデミー賞におけるアニメーションの定義から外されたように、アニメーションであると認められるための定義は年々増えている。『アバター』の年に、そのルールが追加されたのは、真偽はどうあれ、従来ならアニメーションだとされてもおかしくない手法の作品すら実写映画だと言い切ろうとしているように筆者には思える。

 映画芸術科学アカデミーも実写とアニメーションの違いについて考えあぐねているのだろう。それはいいのだが、筆者がやはり腑に落ちないのは、アニメーションにはどんどん厳密な定義を要求するのに比べて、実写映画とは何かを追求しない点だ。

 ウィキペディアのアニメーションのページは記述が膨大だ。それに比べて実写のページはとても薄い。このアニメーションの定義の細かさや記述の豊富さは、アニメーションとは何かを考えてきた人がそれだけ多いということの証だろう。逆に実写の世界では、映画とは何かを考えたきたのだろうが、何が実写なのかを考えてこなかったのではないか。

 「カメラで撮影していれば実写映画だ」とは言えない。なぜなら、アカデミー賞は実写で生身の人間を撮影してコマ撮りするピクシレーションもアニメーションだと定義しているからだ。コマ撮りであるかどうかが両者を分けるものだと考えられているのだが、一般的な実写映像も1秒24コマのコマ撮りであるとも言えなくもない。アン・リーの『ジェミニマン』のような1秒120コマのハイフレームレートの作品も登場し、24コマという数字にも根拠が失われ始めている。

 実写には自立した定義がないのかもしれない。アニメーションじゃなければ実写なのではぐらいの感覚で存在している、依存的な存在と言えるのではないだろうか。

 実写とアニメーションの関係は、筆者にはヘーゲルの「主人と奴隷の弁証法」みたいに思える。

 「主人と奴隷の弁証法」とはこういうものだ。人間が真に自立した自由な存在になるためには、他者からの承認が必要になる。承認をめぐる争いの果てに、勝者である主人と敗者である奴隷に分かれていく。奴隷は主人のために労働させられ、自由はなく自立した存在でなくなる。

 労働とは、奴隷が主人のために物やサービスを加工・提供することであると同時に、自己を形成する機会でもある。奴隷は労働を通じて自己を形成するが、主人はその奴隷が作ったものを享受するだけで自己を形成する機会がないし、主人の生活は奴隷の労働に依存している。奴隷なしでは生活できないということは、主人は自立した存在ではないということになり、自立と依存の関係が逆転する。(※6)

 自立していない主人が主人であり続けるためには、奴隷を必要とする。奴隷こそが主人を主人たらしめる。では、実写はどうなれば実写なのか。

 「アニメーション以外」が実写だとしたら、実写というカテゴリーが存在できるのは、アニメーションという、自立した定義を持ったカテゴリーがあってこそということになりはしないだろうか。映画産業の中で隷属的な立場に置かれてきたアニメーションはせっせと自己の定義を考え続け、形成されてきた。実写はその機会を持たなかったために、アニメーションに依存した存在と言えるのではないか。

ドライブ・マイ・カー
『ドライブ・マイ・カー』(c)2021 『ドライブ・マイ・カー』製作委員会

 言うなれば、実写とアニメーションの弁証法だ。

 しかし、アニメーションは実写という映像の主人のために奉仕する奴隷ではない。そろそろ解放されてもいいんじゃないか。もっと対等の存在として認知されてもいいんじゃないか。今日の映画文化において、アニメーションはすでに周辺的な存在とは言えないだけの勢力になっている。

 アカデミー賞などの映画賞は、業界あるいは映像文化全体がどうあるべきかの価値観を示すものだ。一昨年の『パラサイト 半地下の家族』の作品賞受賞、今年の『ドライブ・マイ・カー』の作品賞ノミネートは、非英語の映画にも高い価値があると大きく示したはずだ。そうした昨今のアカデミー賞の傾向はこれからの映像産業の行く末にも大きな影響を与えているだろう。

 実写とアニメーションが相互承認の果てに、互いが自立した存在となるのか、両者が完全に溶け合い一つの「映像」という表現として発展するのか、実写ともアニメーションとも定義しきれない3つ目の映像が生まれるのか、賞のあり方によっても、映像文化の進む道に変化があるだろう。

参照

※1:『85 Years of the Oscar: The Official History of the Academy Awards』、Robert Osborne著、Abbeville Press刊、P60
※2:『85 Years of the Oscar: The Official History of the Academy Awards』、Robert Osborne著、Abbeville Press刊、P338
※3:94TH ACADEMY AWARDS(R)OF MERIT https://www.oscars.org/sites/oscars/files/94aa_rules.pdf
※4:実写かアニメか?アカデミー賞作品賞部門とアニメーション部門のビミョ~な境界線 https://www.cinematoday.jp/news/N0037710
※5:神山健治×荒牧伸志両監督に聞く、「ULTRAMAN」からにじみ出る“特撮感”と“オールドスクールなこだわり” – ねとらぼ https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1904/01/news114.html
※6:『ヘーゲルの精神現象学』金子武蔵著、ちくま学芸文庫

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