『ミラベルと魔法だらけの家』はディズニー作品そのもの? 主人公の複雑さが意味するもの
「高度に発達した科学は、魔法と見分けが付かない」というのは、SF作家アーサー・C・クラークの言葉だ。“魔法”を持った家族を題材にした、ウォルト・ディズニー・アニメーション・スタジオの『ミラベルと魔法だらけの家』で展開される、その華やかできらびやかな映像は、近年のCGアニメーションの表現を見慣れた目であっても、まさに魔法のような体験を味わっているかのようだ。
『ミラベルと魔法だらけの家』は、そんな圧倒的な映像表現はもちろん、キャラクターや物語など多くの面においても、乱反射するような複雑な魅力を持った作品でもある。ここでは、本作の内容を振り返りながら、現在のディズニー作品の本質的な部分を掘り起こしていきたい。
今回、スタジオが舞台にコロンビアを選んだのは、ディズニー作品『モアナと伝説の海』(2016年)で楽曲を提供し、本作の音楽を担当したリン=マニュエル・ミランダが、中南米音楽を手がけたいと話していたことが発端なのだという。また、魔法や一族の盛衰というモチーフは、コロンビアの代表的な作家であるガブリエル・ガルシア=マルケスの作品の世界観が発想の源となっている。
本作と同年の公開となった『ラーヤと龍の王国』(2021年)は、様々な国や民族との関係を描いた、各地を巡るスケールの大きいアドベンチャー作品だった。それと対照的に、『ミラベルと魔法だらけの家』は、家庭という小さなスケールの物語が展開するのが特徴だ。
登場するのは、魔法の力を持つマドリガル家の人々。この家系の子孫たちは、それぞれ自分だけの魔法の能力を受け継ぎ、無数の花を生み出すことのできるイサベラや、人間の限界をはるかに超えた腕力を誇るルイーサなど、それぞれの力を駆使して村の人々を助けることで、一家は名士として尊敬されているのである。そんな家族のことを主人公のミラベルが歌とダンスで紹介する「ザ・ファミリー・マドリガル」のシーンでは、ミラベルが絶えず元気に動き回ることで、逆にミラベルの魅力が印象づけられる箇所である。
『モアナと伝説の海』(2016年)や『アナと雪の女王2』(2019年)でキャラクターデザインを担当したビル・シュワブらによって造形された、眼鏡をかけて眉毛が太く、ちょっとひょうきんで庶民的な印象を与えられるミラベルは、『白雪姫』(1937年)以来、高貴な美の理想型を追い続けてきた、これまでのディズニー大作におけるヒロインとしては思い切った冒険だといえよう。そのことを際立たせるように、ミラベルの上の姉イサベラは、まさにコロンビア版の正統派“ディズニープリンセス”のような造形が、意図的になされている。
日本の娯楽的なアニメ作品の多くでは、よく作り手によって理想化された美少女が登場する場合が多い。しかし、近年のアメリカのアニメーションでは、必然性に欠ける“美男美女”のようなキャラクターを作ることを避ける傾向が見られる場合もある。とくにピクサー・アニメーション・スタジオは、庶民的なキャラクターが主人公になる場合が多いので、個性的な顔立ちを積極的に採用してきている。それでいて、魅力的で愛さずにはいられないバランスにまとめ上げているのだ。2022年公開予定の『私ときどきレッサーパンダ』の予告を見ると、その試みがよく理解できるはずだ。
そんな魅力をさらに何倍にも膨らませるのが、アニメーションの力である。ミラベルは、静止画ではその魅力が最大限には伝わりづらいかもしれない。しかし、くるくると表情を変えながら動きまくり、声を発することで、キャラクターに命が吹き込まれると、その印象は大きく変わり、強い親しみを感じることになるはずだ。「ザ・ファミリー・マドリガル」のシーンでは、そのようにアニメーションが生み出す幸福な魔法を実感できるのである。その技術の進歩は、同じ目標を目指していた『アナと雪の女王』(2013年)の頃とは、もはや隔世の感すらある。
なぜ、そのような圧倒的な映像表現に到達できるのか。それは、ウォルト・ディズニー・アニメーション・スタジオのスタッフの多くが、一人ひとりアーティストとして高い領域にあるからである。そんなスタッフたちが、観客に強い印象や楽しみを与えるため、それぞれ担当する短いシーンに数カ月から年単位の時間をかけて、講評を繰り返しながら完成度を高めていくのだ。
スタジオがピクサーとともに業界の最前線に立ているのは、そのように狂気を感じるような研鑽と努力、多くのエリートを集め物量で勝負できる会社の体力があってこそなのだ。CGアニメーションのことを比較的楽な表現手法だと考える人はいまだに少なくないが、その業界でトップを走るスタジオは、作品づくりのあらゆる作業に新時代を切り拓くという意志が反映し、高い質を保たなければならない。本作には、まさに現在のアニメーション表現のトップ・オブ・トップ、“魔法”と呼ぶに相応しい表現力に到達している。