『街の上で』が祝福する繰り返しの日々 今泉力哉監督が描き続けてきた“不在"のありか
『愛がなんだ』テルコの想いをも託して
“韻を踏む”という言葉遊びの延長で、『愛がなんだ』のテルコ(岸井ゆきの)が発していたすみれ(江口のりこ)への悪態ラップを思い出してみる。「塚越すみれ 下着よれよれ 内臓荒れ荒れ……」と続く、原作小説にはないあの印象的な夜の道の風景。思えば『愛がなんだ』は、“韻を踏んでいく物語だった”とも言える。
例えば、登場人物たちが韻を踏むように少しずつ似た性質をあらわにしていくこと。それは年越しの夜。ナカハラ(若葉竜也)が葉子(深川麻衣)に献身的すぎることを指して「ナカハラくん、気持ち悪いね」とテルコは言う。そのあとすぐ「私はマモちゃんになりたいって思う」とテルコが言葉にすると、「テルコさん、俺よかキモいっす」とナカハラが答える。この一連の会話が象徴しているように、テルコとマモル(成田凌)の関係はナカハラと葉子の関係へ韻を踏み、マモルに恋をするテルコの身の捧げ方はすみれに恋をするマモルの片想いへ韻を踏み、葉子の両親の生き方が葉子自身の性格へ韻を踏み……と連なっていく。
また例えば、テルコとマモルの関係が、韻を踏むという性質のように“変容をまぬがれないもの”であったこと。「33歳になって会社辞めたら象の飼育員になる」と言った33歳のマモルの横に自分の姿があると信じて止まなかったテルコだったが、ほんの数日でその夢は潰えてしまう。いつの間にか“テルちゃん”と呼ばれなくなったり、「湯葉が嫌い」と言ったマモルがすみれの前で美味しそうにそれを口にしていたり。そこでは、“同じ日々が繰り返されないこと”が悲劇となった。マモルと出会ってからテルコ自体は何も変わらなかったわけだけれど、まわりの風景は刻々と変わっていってしまう。
一方の『街の上で』に戻ったとき、ラップの対となるのは「チーズケーキの唄」であり、それは同じメロディと歌詞の2度の繰り返し(refrain)によってもたらされる。それもまた、この映画の性格を偶然にも表しているようだ。荒川青は日々を繰り返し、さまざまな出会いと別れ、時間を超えたすえに、冷蔵庫からよみがえるアレを迎える。まるで同じ日々を繰り返したかったテルコの想いまで託されたようなアレが、再会を祝福するだろう。