『花束みたいな恋をした』は“最後の砦”? “コミュニケーション”を軸に考える近年の恋愛映画

『花束みたいな恋をした』から辿る恋愛映画

『花束みたいな恋をした』の絶望感

 お待たせしました、そしてようやく『花束みたいな恋をした』なのだが、もうお分かりいただけるように本作のカップルはこれまでこの記事に登場した者より、何倍も素直で普通だ。そしてめちゃくちゃ仲がいい。ちゃんと一方通行ではない、まともな恋愛をしている。対話も問題ない。なぜなら、それは映画や漫画、本、音楽、それらのカルチャー的な共通言語を無限に共有していたからだ。話題は尽きないし、お互いが別に変なマウントを取り合うわけでもない。同棲しても、仲良くやれていた。どれだけ同じ空間で過ごしても、お互いにうんざりすることもなかった。サブカル界隈が夢見る、魔法のような恋人の日々。もちろん、彼らも時には喧嘩をする。しかし、お互いがちゃんと言いたいことを言い合っていて、良い喧嘩の仕方だったように思えるのだ。

 それでも、二人が社会人になるとコミュニケーションが減っていってしまった。麦(菅田将暉)は自ら絹(有村架純)との間にあった共通言語(例えば『ゴールデンカムイ』)を捨てる。これがとても悲しい。そして最も悲しい事実とは、そうやって人が変わっていくことを誰も止めることもできなければ、その権利もないことだ。人は、変わる。諸行無常。あれだけ理想的なカップルでも、やはりそうなのだという事実が胸に突き刺さる。

 最後の砦、それは「至極真っ当なお付き合いの仕方で、これだけ問題のない仲睦まじい相手と過ごせたのなら別れる心配はない」と誰もが信じていた二人の関係性。それが木っ端微塵に砕け散ったことで、『花束みたいな恋をした』の絶望が色濃くなる。

 なぜあの二人が別れる必要があったのだろう、と考える。麦がファミレスでどうにかして関係性を維持しようと、必死に彼女を説得しようとするシーンは胸が痛くなるのだが、絹が言った通り、それは一時的な感情であって、また日常に戻ればそこには少し前にお互いが諦めたコミュニケーションの残骸が転がっているだけ。根本的には何も解決していないから、また遅かれ早かれ二人の間に「別れ」という考えが浮かぶ。そして何より、彼らは「現状維持」の意味がお互いに違っていたように思える。麦が絹に「自分の夢は、絹ちゃんとこうして現状維持すること」と言っていた。絹も愛おしそうにそれに応える。しかし、麦にとっての現状維持とは、どんな形になっても絹と一緒に暮らし続けることであり、絹にとっての現状維持とは“そう言ってくれた時と変わらない中身の彼”と暮らし続けることだったのだ。先にも言った通り人が変わることは自然なことで、誰もそれを責めることはできない。だからこそ、そのどうしようもない事実に絹も麦も咽び泣いた。

 だからこその、コミュニケーション。変わりゆく相手と、常に対話をし続けることで理解し合うこと。アップデートしていくことが長く関係性を保つ上で、とても重要なのだと思う。しかし、現代の若者はそこまで“労力”を使う選択肢を選ぶだろうか。ここまで紹介した作品でも「別れ」という結果が描かれやすく、そういった恋愛のヒット作が多いのも何か関係があるのかもしれない。

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