淡々と続く日常の中で確実に一歩前へ 『チャンシルさんには福が多いね』が与えてくれる“気づき”
チャンシルさんも、とにかく仕事を頑張ることが正解だと思ってたのに、いろんなものを失ってみて初めて、それは果たしてなんのための頑張りだったのだろうと気づくのだ。こうしたテーマを、ホン・サンスのテイストにも似た、飄々とした語り口で、ときにくすっと笑わせたりしながら見せてくれる。
飄々としたおかしさは、映画のビジュアルにも登場している白タンクトップに白トランクスの男性からも大いに感じられる。この男性を演じているのは、あの『愛の不時着』(Netflix)の耳野郎や、『マイ・ディア・ミスター~私のおじさん~』の不倫している社長役などでも知られるキム・ヨンミン。香港映画好きならば、うれしくなってしまうこの役であるが、実はすごく重要な意味を持っているのではないだろうか。
こうしたキム・ヨンミンのような自分と対話する存在は、現在公開中の日本映画『私をくいとめて』に出てくる「A」という存在とも共通している。どこにでもいる変わったところのない一人の女性が立ち止まり、前を向いていく作品として、共通点が多い2作なので、ぜひ一緒に観てみてはどうだろうか。
もう一つ、この作品には、チャンシルと、彼女がほのかな思いを寄せるフランス語の講師の間の会話に、「日本映画には何も起こらない」という議論がある。チャンシルは小津安二郎のファンであり、日本映画が好きな人で、彼女自身は、一見何も起こらないように見える映画でも、いろんなことが起こっていると主張していた。
実は韓国の映画人には、日本映画の「何も起こらない」ことを評価している人は多い。それは、はっきりした起承転結の中に大きな事件や事故が起こるという劇的な物語でなくとも、人間の心の機微や変化が描かれているということを評価しているのである。
『チャンシルさんには福が多いね』でも、派手な事件や事故は起こらず、何かが起こったとしても淡々と日常は続いていく。でも、確実に彼女の中では大きな変化が起こっている。チャンシルさんは、特別な存在でもなくて、自分たちの周りにもいそうなごくごく普通の女性である。そんな彼女には「何も起こらない」ように見える中でも、「自分は自分のために生きていいのだ」と、確実に一歩前に踏み出していた。
最近、「特別ではなくごく普通の女性主人公の物語が観たい」という意見が聞かれるようになってきた。おとぎ話のようなめくるめくストーリーも楽しいが、自分と地続きのようなものも観たいのだ。私もそう思っている一人であるが、『チャンシルさんには福が多いね』は、まさにそんな一作になっていた。
■西森路代
ライター。1972年生まれ。大学卒業後、地方テレビ局のOLを経て上京。派遣、編集プロダクション、ラジオディレクターを経てフリーランスライターに。アジアのエンターテイメントと女子、人気について主に執筆。共著に「女子会2.0」がある。また、TBS RADIO 文化系トークラジオ Lifeにも出演している。
■公開情報
『チャンシルさんには福が多いね』
1月8日(土)ヒューマントラストシネマ渋谷・ヒューマントラストシネマ有楽町ほかにてロードショー
出演:カン・マルグム、ユン・ヨジュン、キム・ヨンミン、ユン・スンア、ぺ・ユラム
監督・脚本:キム・チョヒ
プロデューサー:ソ・ドンヒョン、キム・ソンウン
撮影:チ・サンビン
編集:ソン・ヨンジ
録音:パク・ジョンウ
音楽:チョン・ジュンヨプ
主題歌:イ・ヒームーン
配給:リアリーライクフィルムズ+キノ・キネマ
配給協力:アルミード
後援:株式会社東京現像所+オデッサ・エンターテイメント
2019年/96分/韓国語/カラー/DCP・BD
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