宮台真司の『TENET テネット』評(前編):『メメント』と同じく「存在論的転回」の系譜上にある
リアルサウンド映画部にて連載中の社会学者・宮台真司による映画批評。今回は10月17日放送のミュージシャン・ダースレイダーとのライブ配信企画「100分de宮台」特別編の一部を対談形式にて掲載する。“時間の逆行”が大きなテーマとなっている現在公開中の映画『TENET テネット』から「記憶と記録の構造」を読み解く。宮台は、その複雑な設定が話題を呼ぶ『TENET テネット』の決定論的構造から生まれる倫理の問題を指摘。クリストファー・ノーラン監督が本作に込めたある問い、そして監督独自の作家性が浮かび上がってきた。
クリストファー・ノーラン監督が下した「究極の決断」
ダースレイダー(以下、ダース):今回はクリストファー・ノーラン監督の『TENET テネット』(以下、『TENET』)をメインに、「時間」や「記憶と記録の構造」というテーマでお送りします。
宮台真司(以下、宮台):SFに限らず従来の映画の中で「時間というもの」がどういうふうに扱われてきたかというと、明示的ではなくても「誰かが死ねば/死ななければ、どうなったか」という形で扱われることが多かったですね。つまり「過去は未来を前提づける」=「過去は未来の可能性を開く」という考え方です。
例えば、僕が突然いま心臓発作で死ぬ。それは不幸だと感じられるかもしれない。しかし、まだ若い妻は、その後誰かと出会って結婚するでしょう。それは幸福だと感じられる。つまり、どんな幸福も、あまたの過去の不幸が切り開いたものだということです。実際、僕が死ななければ、あり得たかもしれない妻の新しい出会いの可能性は閉ざされる。
その意味で、皆さんの存在も、あまたの死の上に成り立ちます。誰かが死なずに生きていれば、皆さんのご両親がそれぞれ別の方と出会っていたことは確実です。さらに遡った皆さんのご先祖様夫婦も、同じです。このモチーフは、時間を扱う映画のドラマツルギーにおいて基本中の基本。つまり、不幸を単に不幸として描く映画は、考えが足りません。
これは、初期ギリシャ哲学の創始者でミレトス学派(イオニア学派)のタレス(紀元前6世紀前半・生没不詳)の「万物は水である=全ては流れので生じた渦のようなものだ」という思考に既に含まれています。同じ学派のアナクシマンドロス「万物は無限である」やアナクシメネス「万物は空気である」では失われたもので、むしろ原始仏教に近い。
ダース:例えば、たまたま道を右に曲ってみたら知らない雑貨屋さんを見つけて、そこで置き物を買って家に帰った。それを暖炉の上に置いておいたら、地震で揺れたときに落下して、おじいちゃんの頭に当たって……となると、分岐点は「道を右に曲がったこと」と捉えることも、論理構造的にはできる。話を作る上では「死」くらいインパクトのある出来事で枝分かれした方が構造が見えやすくなるというだけで、細かな分岐がブワッとつながっていく状況を俯瞰すれば、実はいろんな見方ができます。
宮台:そう。皆さんもよくご存じの量子力学の「ハイゼンベルクの不確定性原理」を待たなくても、実存的には世界は確実に非決定論的です。ふと雑貨屋さんの看板が目に入ってしまったこと、ふと女と目が合ってしまったことが、想定外の枝分かれをもたらし、今の取り返しがつかない世界・あるいは・掛け替えのない世界につながるわけです。
しかし今回扱う『TENET』が前提としているのは決定論的な世界観です。ノーラン監督は物理学に詳しいので、今日のどの分野の学問にも反するこの設定は、いわば敢えてする「究極の決断」です。なぜ、この「とてつもない選択」を決断したのか。今回の話はそのことが軸になります。
僕はこの映画を4回観ています。海外も含めて膨大に行われた「謎解き」もほぼ全て確認しました。でも学問を装った謎解きには意味はないことを断言します。なぜなら最初から学問に反することを宣言しているからです。僕たちが本作を観て受け止めるべきことは、この反学問的世界観が、我々に何を訴えるために選択されたのかということです。
幾何学でいう補助線を引きます。ノーランの2作目『メメント』(2000年)が『TENET』とよく似ます。『TENET』では、時間順行シーンが赤、逆行シーンが青のモチーフで描かれます。『メメント』でも、順行シーンはモノクローム、逆行シーンはカラーと、描き分けられます。手法の選択は「まったく同じ」です。
また、『TENET』で用いられた「銃弾が逆行して拳銃に収まる」という映像のアイデアも、『メメント』の冒頭ですでに使われています。そこも「まったく同じ」です。「時間の順行でだんだんと像が浮かび上がってくるポラロイド」が「時間の逆行でだんだん消えていく」という映像もまた、逆行の映像です。そこも「まったく同じ」です。