<特別編・前編>宮台真司の『ミッドナイト・ゴスペル』評:サラダボウルの中にいた「見たいものしか見ない」主人公が「倫理」に気づく

宮台真司の『ミッドナイト・ゴスペル』評

 【「見たいものしか見ない」主人公が「倫理」に気づく】

ダース:クランシーもそういった状況に生きていて、しかも現実に「見たいものしか見ない」。あれって二重にもう1個あって、シュミレーターに頭突っ込めば、彼が生きている小さな家で、虫が大量発生したり、助けに来た人が感電して閉じ込められたりとか、いろんなことが起こっているんですけど、頭さえ突っ込めばそれらを全く「見なくていい」んですよね。そうして違う世界に飛んでいって、そこで違う自分になって時間を過ごして帰ってくるってことができる。

 さらに言うと、たまにお姉ちゃんから電話がかかってきて、留守電のフリをするっていう(笑)。あんなにテクノロジーの中にいて、島宇宙の好きなところに行ってっていう暮らしを送っているのに、お姉ちゃんから電話がかかってきたら留守電にするみたいな。で、その現実を「見ない」ためにまたシュミレーターに頭を突っ込むわけだけど。そんな「見たいものしか見ない」究極体となっているクランシーが、どんな倫理観を持ち得るかっていう問題設定が『ミッドナイト・ゴスペル』の8話目に至る話っていうか。

 あのまま暮らしていれば、別に毎日、ただただアレをやってればいいんだけど、そのクランシーが「やっぱり『倫理』が必要なんじゃないか」っていう気づきに至る。それが8話を観ていくことによって……要はサラダボウル状態で、「ここ『✕』だから行かなくていいや。次はここに行こう、とかやっているだけでいいのか?」っていうのを自分に向かって問いはじめるきっかけを与えてくれるのが、お母さんが訪ねてくることで。そういった意味では、ローティが作った問題設定にも答える構成になっているのかなと思うんですけど。

宮台:なるほど、本当にそうだ。シリーズ全体は、三島由紀夫の「博文館的文化主義」批判と同じ形の「観光文化主義」批判が貫徹している。主人公クランシーはいろんな場所に観光に行くけどーースペースキャストでインタビューを流すための取材という名目でーー彼は全く何の影響も受けないよね。それが印象的な演出になっている。ところが6話から8話にかけては「力を受ける」ように変わっていく。いわば、「人畜無害な観光文化主義を伴うゾーニング」から「実存の変容を伴うメルティング・ポッド」への、変化だと言えると思う。

 それがドラッグの話に繋がる。昔はドラッグが「解放」のビジョンと共にあって、それが「ドラッグは良いものだ」という観念に結びついていた。でも今は「ドラッグの解放を、統治に利用しよう」ってなった。「当事者の眼差し」から「統治の眼差し」へとシフトしたわけだ。この「統治の眼差し」は、ドラッグだろうが、ゲームだろうが、他のどんなメソッドだろうが、「個々のゾーンの秩序が保たれるのであれば、別に構わないので、みんな好きにやれば?」というフラットな等価性に覆われている。そこには、もはや「夢」がないんだよね。

 昔は、多様性と言えば、「あれもあるのか!」「これもあるのか!」という体験の驚きと共にあったでしょ? それはドラッグも同じこと。まさにアメイジングな感覚が僕らを支配していたわけだ。でも、今はどうだろう。クランシーはいつもフラットだよね。ただし、シリーズ終盤になるまでは。終盤までは、アメイジング感覚どころか、学ぶ姿勢さえなかった。単なるヒマ潰しの好奇心だけ。しかも最初は一人しか……(笑)。

ダース:スペースキャストって言ってるわりに、購読者が一人ですからね(笑)。

宮台:まさにそれが、島宇宙化を表しているよね(笑)。そこにサイケデリックなイメージが使われることに、僕はすごくインパクトを受けるんだ。それは、僕ら世代がサイケデリックの同時代を知っているからだと思う。僕は71年に中学に入る世代だから。今はドラッグにしろコンピューターにしろ統治のツールだけど、ドラッグにもコンピューターにも「解放」の思いを託した世代だ。ムーグ博士による1960年代末のムーグシンセサイザーの発明も、サイケデリックな時代抜きになかったし、音はまさに「ここではないどこか」そのものだったよ。

 それが変わっちゃった。音楽が分かりやすい。「ここではないどこか」を憧憬するロックの時代が終わった1975年、クラフトワークがグルーヴ感を欠いたフラットな16分音符の並びだけの『アウトバーン』を出した。最初は「ロックの終わり」をいじった“シャレ”だと受け止められたけど、1976年の『トランス・ヨーロッパ・エクスプレス』になると、時空を“オシャレ”に彩る「ここの読み替え」ツールになった。でも、それを楽しめるのは、当時の日本で言えば「新人類系」ーー今でいうリア充に近いトライブーーだけだったというね。

 その頃、バックパッカーをやめたスティーブ・ジョブズは、親友のスティーブ・ウォズニアックとガレージコンピュータを作っていたけど、80年代にマッキントッシュが発売されると“オシャレ”な金持ちの自己顕示ツールになった。それも確かにカリフォルニアン・ドリームあるいはカリフォルニアン・リベラルの象徴でもあったけど、MacかMS- DOSかっていう対立を含めて、「解放=社会変革」のイメージを託されたものというよりも、「トライブ=ゾーン」内部のコミュニケーション・ツールになっていた。その意味で、70年代後半、「みんなのドリーミーな幸せ」が仮託される何かが、一挙に消えたんだね。僕ら世代が『ミッドナイト・ゴスペル』のサイケ・イメージを見るとそれを思い出しちゃう。

【『ミッドナイト・ゴスペル』の素晴らしい構成力】

ダース:ちなみに、クランシーもそういった生活を送っていて、国境とかもなくて、そこに観光気分で行っているだけ。さっき宮台さんはドラッグにしろゲームにしろ、あらゆるものが統治の手段として使われるようになっていると言っていましたが、その問題も提起されていて。も、クランシーが、偽物のシュミレーターを使っていたってことがバレて、警察が来るんですよね。やっぱり、統治権力が実はちゃんと上に存在していることが分かる。クランシーの、小屋にシュミレーターを作る遊びは、『マトリックス』のコードにつながれているヤツと実は同じ構造だった。大量の警官がやってきて、「こいつなんか気づいたっぽいぞ」と言う。そして、最後お母さんが訪ねてきたことによって、「お前このまま観光気分でサラダボウルをあちこちつまみ食いしてるのでいいのか?」っていう話をお母さんにされる。というか実は6話目から突然、哲学者の人にあったら「悟りをひらくってこういうことなんだ、分かったぞ!」みたいなこと言い出して(笑)。

宮台:あ~、「瞑想のプロ」の回だね。

ダース:あの話もすごく良くて。ちょっと喋った間に、悟った気持ちになっちゃう。なんか真理に目覚めたみたいなクランシーが、「分かっちゃったよ僕!」みたいなモードになって、そこから7話目で「死」について考える。で、8話目が「生命」について考えるという作りになっているんですけど。

 8話目でお母さんがやってきて、レッドピルを飲んで、あの島宇宙から出るきっかけをお母さんから与えられちゃうんですよね。そうすると、『マトリックス』でいうエージェント・スミス的なヤツが大量にやってくるっていうのが、『マトリックス』と描いていたものと同じものをアップデートして描いているって感覚にもなるんです。統治されてるわけだから、あいつも。

宮台:そうだよね。転送ポッド(シミュレーター)にも、合法なものと非合法なものがあるというのが、分かりやすいよ。解放のテクノロジーとはいえ、合法化されていなきゃダメだよと(笑)。統治の都合に反しちゃいけないよと。統治の内側に解放があるというビジョンだね。

 さて、7話目の「死」の後が、8話目の「誕生」だ。これは「誕生の奇蹟」つまり「お母さんから生まれることの奇蹟」を主題化する。両方とも時間のモチーフなのが重要だね。ところで、第7話の「死」は、ハイデッガー(ドイツの哲学者)的に扱われるのかなと思って観たら、違った。エンバーミング(死体防腐処理)のことを延々喋っていたね。

ダース:あれはすごい。あんな話を僕は聞いたことなかった(笑)。南北戦争で人が死にすぎて、死体処理が追いつかないから防腐処理をせざるを得なかったってところから、葬儀屋ビジネスがはじまったみたいな(笑)。

宮台:その葬儀屋たちが、南北戦争が終わった後も、「腐った死体ほど危険なものはない」という嘘やデマカセで、産業化された「埋葬ビジネス」の市場を拡げていくという。

ダース:「早く処理しないとダメですよ」ってすりこみをされたっていう。

宮台:ボリュームタイトルが「死」なのに、死が商業化されていくプロセスだけが淡々と語られるのは、「期待外し」として面白い。「聖や穢の、俗化や商業化」という流れも、思えば「ここではないどこか」から「ここの付加価値化」へ、という流れの一環だった。さて、そこで僕らが「俗の時空」に何となくウンザリしたところで、8話目の「聖の時空」に入る。お母さんとともに「誕生」を思い出し、「誕生」の神秘に自分の心を寄せて、それゆえに「死」を受け入れる態勢になれるという。つまり、7話は8話の前座だ。 

 7話だと、クランシーはまだ「死」を受け入れる態勢にない。「死は商業化の対象なんだ、ふーん」みたいなウンチク系。その間(かん)映像は絶えず、トピックに関係ないノイジーなイメージを提供し続ける。さっき話題になったけど、トークの内容を分かりやすく補完するためのコンテクストを充てがう映像ではない。むしろノイズによって全てが力を奪われるようにーーフラットになるようにーー音も映像も使われる。映像だけ見ればものすごく綺麗だし、音だけ聴けば実に素晴らしい音だけど、そのぶん話は「ただ同じことを繰り返しているだけ」という印象になる。そのぶん8話目が際立つという仕掛けだね。

ダース:そうですね。7話目まではそういう作りになっていて、3話目かな?  頭が金魚鉢の男が出てきて。これもビジュアルがすごくいいんですけど。そこで猫をたくさん飼っていて、猫を可愛がっていると思いきや……海賊みたいなのがやってきて、「~~くれ」「OKいいよ、じゃあいくらよこせ」って言ったら、猫で払うっていう。「あ、猫が通貨だから大事にしてたのか」みたいな(笑)。すごい仰天の描写が出てくるんですけど。会話は瞑想の話をしていて、猫がオルガン弾いたりしてて、ずっと猫がミャーミャー鳴いてる。それで最後は巨大化してウルトラマンみたいになって痴話喧嘩をはじめるみたいなストーリー。

 あれって瞑想の話も猫の鳴き声もオルガンの音も、同じ価値しか無いっていうのを、1話通してやっている。つまり『ミッドナイト・ゴスペル』においては、猫の鳴き声も鳴っている音楽も、いろんな歌とか音とか、「すべて対等の価値として出てきます」っていうのが分かりやすく話で出てくる。どこにフォーカスを置いて観ればいいのか、とくに1話目から入っていくと、「ゾンビがそこら中から現れて、大統領とドラッグの話してるけど……」みたいなので、どこを観たり聞いたりすればいいのか分からないっていうのが、3話目になると「だからそれってどれも意味ないから」ってことを言われちゃう(笑)。結構すごい作り。

 でも「意味ないから」って言ってるけど、くり返し聞いていると、難しい会話しつつも会話自体のグルーヴ感だったり、出てくるワーディングがすごく気持ちよかったり。すごくパンチラインになる決め台詞も出てくるから、聞き逃がせない。アニメも、関係ないことをノイズとしてやっているように見せてるわりには、すごく可愛い絵で面白いことをいろいろやっている。食肉工場に飲み込まれていって、話ながらどんどん肉にされていったり。細かいディテールまでいろんな色を使って描いている。だから「全部対等」って言うけど「全部価値が無い」っていうよりは、すごい豊かなものが並列に並べられている。でも8話目になるとそれが、ガッチャンコするという構成になっている。8話目は母親が訪ねてきて、誕生について話すんですけど、アニメがすごく見事で。話しながらお互い年を取っていくということを映像化して、話とシンクロしながらその映像を観ているだけで、すごくグッときてしまうというか。感動的な作りになっていますよね。

宮台:僕は『ベンジャミン・バトン』(2009年)っていうデヴィッド・フィンチャー(映画監督)の映画を思い出しながらずっと観ていたんだ。若返りを極端に推し進めれば生誕に至り、生誕を知ることは死を受け容れるのと同じだというね。手塚治虫の『火の鳥』にも、赤ん坊にら向けて若返っていく描写があった。

ダース:牧村ってヤツだけが年齢が逆行する罰を火の鳥から受けているっていう話ですね。

宮台:そう。8話目で初めて、1960年代のサイケデリックな「ファースト・サマー・オブ・ラブ」の理念とは何だったのか、という聖なる反省モードに至る。7話目で不完全燃焼ぎみだった「死」の話も、「生誕を知ること=死を受け容れること」という形で本格的に語られる。それで、僕たちは『ミッドナイト・ゴスペル』が何のために作られたかのかをやっと知るわけだ。そう。死を喜んで受け容れるためだよ。形のないもの(アモルファスamorphousness)が、膨縮を繰り返しながら、形のあるもの(モルファスmouphousness)を結像し、ソレが再び形を失っていく過程で、死を受け容れる。

 深く読めば、サイケデリック=LSD体験の本質が、自他の区別の放棄=空間的アモルファスと、過去と現在と未来の区別の放棄=時間的アモルファスから、成り立つことを説いている。死の直前に訪れる高濃度エンドルフィン状態も、そうした時空のアモルファスだと思う。僕らがサイケデリック体験を語る場合、日常を支えている時空の枠組み(モルファス)を前提に、その体験を「快」として尤もらしく位置づけるでしょ? サイケデリック・アートみたいにね。でも、サイケデリック体験の本質は、そうした快不快の弁別を可能にする枠組自体を失った後ーー死に接近した後ーー、再び生誕して、枠組を結像するところにある。

 そこでは、サイケデリック体験自体より、そこから日常に帰還した際に体験されるものが、大切なんだ。サイケデリック体験が持つ意味は、「社会(モルファス)から世界(アモルファス)へ」という往相より、むしろ「世界(アモルファス)から社会(モルファス)へ」という還相で与えられる。そこでは、規定可能なものから成り立つ社会的なものの総体ーー「自己」が典型だけどーーが全くありそうもない奇蹟として浮上するんだよね。

 主人公と母親が、加齢と遡行、互いの入れ替わりを、体験する場面は圧巻だけど、そんなアモルファス体験からグラウンディング(着地)した時、自分が男であり、年齢があり、名前があり……といった記憶の再結像で、形を失ったものが形を取り戻し、長旅から帰還した時のように「あっ、僕はいたんだ、あなたもいたんだね」となる。それが体験のドラッグ体験の中心点だと思う。クランシーという主人公は、いろんな惑星に取材して回っているけど、僕らがよく視るテレビレポーターとかと同じで、対象にそんなに興味があるわけじゃない。

ダース:適当に見つけていますもんね。

宮台:そう。フォーカスが合わない。だから耽ることもできない。ソレが存在しているように感じられない。彼だけじゃない。僕らがみんなそういうふうに生きている。そういう時代なんじゃないかと全体が問い掛けている。それはとても苦しいことだよね、と語り掛けてもいる。これを「多幸感の不幸せ」と逆説的に表現できると思う。僕らはもっと輪郭を持ちたい。何かにフォーカスして耽りたい。そんな流れの中で、クランシーが唯一フォーカスできたのがお母さん。だから、お母さんと共に「誕生」と「死」を行き来するんだ。共に行き来できる相手だからこそフォーカスできる……そこは循環構造だ。そして、そんな行き来が、「死」を望んで受け容れる構えを準備する。それが端的に良いことだと感じられるわけだ。

 そこから翻って、何かにちゃんとフォーカスできる奇蹟が愛でられる。これは保守的だと言えるけど、これも良いことだと感じられる。8話のセリフにも出てくる。「何も見ない、何も聞かない、見たいものだけを見て暮らす、これじゃダメだよね」っていう。ただ、社会批判としては、もはや無力だよ。僕らが何かにフォーカスできるような社会は、もう回復できないからね。でも、実存的には豊かな意味を持つ。そう感じさせてくれるのが印象的だ。そこでは、「過去、あるいは時間の扱い」がどうあるべきなのか」というところで、ラストの警官隊の突入に象徴される「もはや何も取り戻せない」「もはや何を言っても無駄足だ」という感覚が、必ずしも否定的ではないものとして描かれる。そこが『攻殻機動隊SAC_2045』の最終2話と、実はモチーフが完全に同じなの。

ダース:なるほど。そこがつながってくるんですね。『ミッドナイト・ゴスペル』のお母さんとの話の中で、「フロー」っていう言葉で出てきて。僕はラッパーなので、言葉がフローしたり思考がフローする、流れとして意識するっていうのがすごく大事で。グルーヴやいい感じの雰囲気っていうのも全部フローーー流れているーーだと思っていて。

 で、川と川の流れっていう例えでお母さんは「みんなは川岸にいることすら気づいていない」と話していて。しかも流れに乗っちゃうと流されていっちゃう。クランシーとお母さんが「そんなふうになりたくない、行きたくないところに行っちゃうじゃない」「それでいいのよ」「でもやだよ」「その時は泣けばいい」みたいな話で、その対話のところはすごく感動的な作りになっているんですけど。

 でも同時に、「結局は流れていってしまうんだ」っていう。あれだけのいろんな情報量を並列化で並べて、でも並列って流れないから、横にどんどんスワイプしながら延々続いて、ペタって貼り付けられているものの上に生きているみたいな感じだけど、「流れなのよ」「そうなんだ」って言ってーーこれは観ていれば分かるけどーー、最後、流れていく様子が、二人が星になった後の形として美しく描かれていて。「ああ、すごいいいな」と思ったら、統治権力がやってきて、星が爆発して終わり、みたいな形になるんだけど(笑)。

 これは、「流れなのよ」って気づいちゃったモチーフが『攻殻機動隊』だと。『攻殻機動隊』も保守的な倫理を築いていることと、その先にあるものがなにかっていうテーマ設定が出てくると思うんですけども。

(以下、後編に続く)

ダースレイダーx宮台真司 #100分de宮台 第4回

■宮台真司
社会学者。映画批評家。東京都立大学教授。近著に『14歳からの社会学』(世界文化社)、『私たちはどこから来て、どこへ行くのか』(幻冬舎)など。Twitter

■DARTHREIDER a.k.a. Rei Wordup
77年フランス、パリ生まれ。ロンドン育ち東大中退。Black Swan代表。マイカデリックでの活動を経て、日本のインディーズHIPHOP LABELブームの先駆けとなるDa.Me.Recordsを設立。自身の作品をはじめメテオ、KEN THE390,COMA-CHI,環ROY,TARO SOULなどの若き才能を輩出。ラッパーとしてだけでなく、HIPHOP MCとして多方面で活躍。DMCJAPAN,BAZOOKA!!!高校生RAP選手権、SUMMERBOMBなどのBIGEVENTに携わる。豊富なHIPHOP知識を元に監修したシンコー・ミュージックのHIPHOPDISCガイドはシリーズ中ベストの売り上げを記録している。
2009年クラブでMC中に脳梗塞で倒れるも奇跡の復活を遂げる。その際、合併症で左目を失明(一時期は右目も失明、のちに手術で回復)し、新たに眼帯の死に損ないMCとしての新しいキャラを手中にする。2014年から漢 a.k.a. GAMI率いる鎖GROUPに所属。レーベル運営、KING OF KINGSプロデュースを手掛ける。ヴォーカル、ドラム、ベースのバンド、THE BASSONSで新しいFUNK ROCKを提示し注目を集めている。

■配信情報
『ミッドナイト・ゴスペル』
Netflixにて独占配信中
配信サイト:https://www.netflix.com/jp/title/80987903?source=35

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