<特別編・前編>宮台真司の『ミッドナイト・ゴスペル』評:サラダボウルの中にいた「見たいものしか見ない」主人公が「倫理」に気づく
【その多様性は「メルティングポッド」か「サラダボウル」か】
宮台:ここで冒頭の話に戻れる。かつてテクノロジストは「いまだかつてない夢のアメリカに旅立とう」だった。今のテクノロジストは「古き良きアメリカを取り戻そう」だ。若い人は「古き良きアメリカ」が分からない。だったら渋谷のクリスピー・ドーナツに行くといいよ。店の周辺に1950年代の古いアメリカの写真が多数ディスプレイされている。マッカーシズム(赤狩り)が終わると、50年代半ばからアメリカでは急速に分厚い白人中産階級が育った。1950年代半ばからベトナム参戦の1960年代半ばまでが、テクノロジストがいう「古き良きアメリカ」だよ。映画ファンなら、当時のハリウッド映画を思い起こすといいかも。今のアメリカの「惨状」からすれば、確かに白人にとっては「夢の時代」だろうね。
そこから『ミッドナイト・ゴスペル』を眺めてみよう。この作品はテック(ハイテクノロジー)が与える体験の華やかさを描く。そこはサイバー&ドラッグのテックが与える華やかさを描いたアリ・フォルマン監督の映画『コングレス未来学会議』(2013年)と似ている。両方とも「テックによって体験(を与える脳内環境)を操縦すれば人々を解放できる」というビジョンを描いているからだ。そこだけとれば、昔のサイケデリックやそれを支えたフラワー・ムーブメントと同じだ。ただよく見てほしい。そこでの「解放」の方向性はユニバーサリズム(みんなを等しく……云々)じゃない。個人間のセグリゲーション(分断)と、それを前提としたセルフガバナンス(自己管理)に一元化されている。だから与える印象がどこか寂しさに満ちているでしょ? 何かが間違っているという印象。さっきのダースさんの紹介が素晴らしい。
クランシーは一人で小さなボロ屋に住む。たぶん他の人も同じだ。日本で言えば四畳半住まいかな。そこからシミュレーターでどの星の人とも繋がれる。加えてその星に飛んでそこにいる人と体験を共有できる。だから彼の意識は宇宙大だ。この設定自体が今の僕らのメタファーになっているよ。つまり「本当にそうなのか、そう思わされているだけなのか」ということ。だから、エキサイティングなのに、少しもの悲しい。彼の意識がテックで宇宙大に拡大していなければ、ボロ屋やその近隣に意識が及ぶのに……と思わせるからかもしれないね。
だからモヤモヤする。実際、トランプ周辺にいるテクノロジストの新反動主義者や加速主義者と、国民一般との間には、ものすごい情報の非対称性がある。トランプが大統領になる前から一貫して大麻解禁派であるのも、「大麻政策の自治に連邦政府を介入させない」という共和党的イデオロギーと、「再配分政策をせずに済ませるためにゲーミフィケーション&ドラッグを使う」というこれまた共和党的イデオロギーによる。1960年代のサイケデリックな時代のような「みんなを解放する」みたいな民主党的イデオロギーは無関係なんだ。でも『クッキング・ハイ』を見ると、民衆には「みんなを解放する」というイデオロギーが残ってはいる。
テクノロジストらが弁えるように、AI化で今後は多くの職場が失われ、再就職もできない。だから2010年代からフィンランドで、2020年代からドイツで、ベーシックインカム(BI)の実証実験が始まった。元はミルトン・フリードマン(経済学者)が言い出した政策で、行政官僚制の非効率を避けるためだった。今は、グローバル化による格差化と貧困化に続く、AI化で大量発生する失職に、対処するためのものだ。「アメリカ人はみんな仲間」みたいな国民意識はもうないので、再配分政策を採れば財産も資本も流出する。ゲーミフィケーションもドラッグもBIも、「百姓は生かさず殺さず」みたいな徳川的理念の現在版みたいな感じだ。
ダース:水を飲んで、プラスちょっとの娯楽、みたいな。
宮台:そう。ただし苦痛を耐え忍ばせるわけじゃない。拡張現実・仮想現実のテックと、丸薬のような栄養ピルがあれば、実際、人は幸福感に満たされるだろう。僕としては、ドラッグ論の観点から「幸福感」と「幸せ」を区別したいところだけど、そこは横に措こう。蓄財や散財の幸福感に匹敵する脳内環境を、サイバー&ドラッグで作り出せるのは事実だよ。「オレたちは蓄財と散財の幸福感。オマエたちはサイバー&ドラッグの幸福感。でも幸福感から見放されるヤツがいないのだから、オレたちのカネはシェアしないよ」と。まぁ或る種の合理主義だ。
でも、カネをシェアしろというのが、そもそも無理なんだね。「アメリカ人はみんな仲間」じゃなく、今やただのアカの他人だからだよ。それだけじゃない。さっきの「再配分主義は全て排外主義である」というリベラリズムの定理もある。ビル・ゲイツ(アメリカの実業家)とかウォーレン・バフェット(アメリカの投資家)みたいに、「アメリカの自堕落な者たちに財産を分けるのではなく、世界中にいる本当に困っている子どものために財産を使う」というのは合理的だ。私財を大半注ぎ込んだメリンダ&ビル・ゲイツ財団は、世界中の困っている子どもを助けてきたし、世界最大の投資家ウォーレン・バフェットも財産の9割をそこに寄贈した。だから利己主義者とは言えない。むしろ、本当に困っている人を助けようとする利他主義者だよ。
ダース:いまのバフェットとかゲイツの発想っていうのも、前段で話していた、「アメリカがアメリカでいられることは不可能だ」っていうことの回答の1つだと思う。メリンダ&ビル・ゲイツ財団の戦略チームのリーダーが、僕の中高の同級生なんですよ。だから月一でゲイツとミーティングをやっている。今、ゲイツはコロナのワクチン対策の投資をしているんですけども、とにかく可能性のあるところには全部金を入れて、どこが当たるか分かんないけど、全部同時進行で進めさせるってやり方で。同級生はその戦略チームの1つを担当しているんですけど、彼はもともと、JICAの職員としてアフリカに行って、エボラ出血熱やアフリカの様々な伝染症に対する保健所を、どこにどうやって作ってお金をどう分配するかってことをずっとやっていて。要は、彼みたいな人材を世界中から集めて、アフリカとかの最貧国における保険治療とかにカネをドカッと入れるのが、ゲイツのやっていること。
これって『ミッドナイト・ゴスペル』で、液晶にいろんな惑星が出てきて、「✕」がついているところはもうダメなんですけど(笑)、「この惑星はまだいける!」ってポンッて押して、そこに行って、そこでなんかやるっていう感覚と、ゲイツがやっていることって、なんか似てんじゃないかなって。「ここ困ってるぞ!」って思ったらそこ押して、そこにビューンって行って、そこに病院つくって帰ってくるみたい。
宮台:まさに。クランシーが生きているあの世界には、国境がない。国境的な観念が既に失われた世界だよね。だからナショナリティー(国籍)も出てこない。単に、惑星たちがあるだけ。それも、数え切れないほどあるんだね。だから、クランシーの営みは終わらない。
ダース:もういくら行っても出てきますもんね。それで多分あれは日々更新されているから。全部「✕」になっている日もあるし。
宮台:それが今日の多様性のメタファーになっているよ。さっき話したリチャード・ローティが90年代に描いたビジョンと同じでしょ? 多様性といっても「メルティングポッドか、サラダボウルか」の違いが重要で、現にある「多様性」は所詮「サラダボウル」だと。これを初めて言ったのがローティ。融け合う「フュージョン」か、無関連に共在する「ゾーニング」か。フュージョンが「メルティングポッド」で、ゾーニングが「サラダボウル」だ。
ダース:結局サラダボウルは、「それぞれの野菜はそれぞれの野菜のまま」。混ざっているように見えても、ちゃんとキャベツ・トマト・キュウリで分かれているってことですもんね。
宮台:そう。そこから先は、僕の本に何度も書いたように、ゾーニングがどんどん進むと、マクロに俯瞰すると多様に見えて、各ゾーンにいる各人は多様性を見なくて済む。この「ゾーニングによる多様性」がクランシーの生きている世界だ。これは既にそうなっているし、これからますますそうなるだろうね。でも、非常にまずいと思うんだ。なぜなら、元々、多様性の唱導はある種の「倫理」だったからだよ。
ロールズが『正義論』で提唱した「立場の可換性」も、一国主義という不十分さはあるものの、立場も価値も異なる者たちのフュージョン=なりきりを、唱導する「倫理」だった。そこはローティも認めているけど、「見たくないものは見なくていい」ゾーニング空間が、その「倫理」を失わせちゃうんだ。それをローティが問題にした。その意味で、互いに無関連な島宇宙のように各惑星が散在する状況は、ローティ的には正しい多様性とは言えないよ。