『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』とは何だったのか 庵野秀明監督による“繰り返しの物語”を振り返る

 観る者を魅了する、複雑な謎と設定の凄まじさはエヴァンゲリオンだけにとどまらない。エヴァが守る新第3東京市の地下には、使徒を倒すために組織された「ネルフ本部」と、広大な謎の大空間が存在している。使徒はその最深部“ターミナルドグマ”に存在するといわれる「アダム」に到達するために次々と現れる。この大空間の構造は、「マルボルジェ」や「コキュートス」など、いろいろな部分の名称が14世紀イタリアの詩人ダンテの叙事詩『神曲』の「地獄篇」から取られている。

 また、“父親を殺し、母親と姦淫する”という呪われた予言を告げられた男子が、放浪のなかで予言の運命に導かれていくというギリシャ悲劇の戯曲『オイディプス王』からは、碇シンジと両親との関係を抽出しているように、本シリーズは、前述したように宗教をモチーフとし、歴史的な文献や文学などをベースとしている部分が多い。

 『新世紀エヴァンゲリオン』を手がける前、庵野監督はTVシリーズ『ふしぎの海のナディア』を監督し、全力投球で燃え尽きた状態にあったという。その後の監督作を見ても分かる通り、そもそも庵野監督の作風は、破滅主義かと思うほどに作品に労力を注ぎ込み、その度に魂を抜かれたような状態になっているようだ。庵野監督は『エヴァ』までの期間に、特撮やアニメーション以外に、小説にも多く触れ、文学というものが、人間が生きる上でより普遍的なテーマを追求していることに衝撃を受けたという。その中には、登場人物の名前を『エヴァ』の主人公の同級生の名前に引用した、村上龍の『愛と幻想のファシズム』などもあった。

 「ヤマアラシのジレンマ」などのコミュニケーション不全をテーマとした、きわめて現代的な問題を扱いながら監督は、『機動戦士ガンダム』の悩める主人公の構図も借りながら、“自分とは何か”ということを突き詰め、監督個人の実感と焦燥へと肉薄。TVシリーズの内容は限りなく純文学的で、同時に狂気をともなったコントロールが効かないものとなっていく。それを前衛演劇のような演出をとり入れて描いたことで、TVシリーズの最終2話は、アニメーション作品としてはかなり難解なものとなった。

 しかし、それがさらに『エヴァ』の価値を高めることに繋がった。ロボットアニメとしての爽快さやカタルシスが欠如した内容は、それまでのアニメファンの一部には不満を与えたところがあったが、その一方でロボットアニメのような作品に全く縁のない人々が、ジャンルを超えた『エヴァ』の魅力に気づき、幅広く様々な観客が熱狂的に支持することになったのである。

 プロデューサーの助力もあり、初めて自身が企画を立てて、話づくりも演出も好きにできるという好条件を手にしたことで庵野監督は甦り、そのチャンスを最大限に活かすことで、ついに『エヴァ』を前人未踏の領域に進ませたのだ。

 そして、最終2話を描き直すというかたちで製作された旧劇場版は、Production I.Gのスーパーアニメーターらの力も得て、活劇としての魅力を大幅にアップさせるとともに、クライマックスへと至る流れでは、TVシリーズ以上に先鋭化した前衛表現に突っ込み、実写パートを用意したり、当時の製作スタジオのガイナックスが落書き被害に遭った写真や、インターネット上での監督個人を罵倒・脅迫するメッセージを画面に映し出すなど、監督としてやりたい放題の限りを尽くしている。

 奇しくも、完結編が上映された夏は、師匠のような存在の宮崎駿監督の入魂の大作『もののけ姫』との同時期公開となった。そのネームバリューから、公開館数の多い『もののけ姫』は『エヴァ』とは比較にならないほどの動員を獲得したが、純粋に作品自体の新しさや、後世に与えた影響で考えるなら、『エヴァ』はさらにその上に到達したといえよう。

繰り返しの物語「新劇場版」

 とはいえ、このように自分の全てをさらけ出した、破滅的ともいえる作品を、その後も安定して連発できるわけはない。宮崎監督が、世界的な映画賞を次々と獲得した『千と千尋の神隠し』など、その後も凄まじい傑作をものにしていくのに対し、庵野監督は実写作品を撮ったり、少女漫画のTVシリーズを手がけるなど、新しい表現を目指したものの、『エヴァ』に並ぶことができるような作品を送り出せずにいた。

 そんな庵野監督が、新たなスタジオ「カラー」を自ら設立し、もう一度『エヴァ』をやるという。当初の仮タイトルは、『エヴァンゲリオン新劇場版 REBUILD OF EVANGELION』だったことから想像すると、いまだ熱狂的なファンの多い『エヴァ』をもう一度、ハイクオリティなものとして描き直すことを想定したものだったのかもしれない。しかし、この新劇場版シリーズの企画発表時には、大げさといえるほどの熱意が込められた、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』所信表明「我々は再び、何を作ろうとしているのか?」も同時に発表され、この内容から旧作のファンは、懐かしくもただならぬものを感じ取ったのである。

 庵野監督はそこで、“「エヴァ」はくり返しの物語です。 主人公が何度も同じ目に遭いながら、ひたすら立ち上がっていく話です。 わずかでも前に進もうとする、意思の話です。”と語っている。

 『シン・ゴジラ』で言われていた「スクラップ&ビルド」という言葉。破壊しては作り上げ、また破壊して作り上げる。『エヴァ』を繰り返し製作することで、都市が全く新しい姿を見せるように、そこにはアニメーションの世界をより新しい境地へと導く予感と期待が漂う。

 旧劇場版『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』の劇中に、印象的な場面がある。“神と等しき存在”と同一化を果たす過程のなかにある碇シンジは、精神世界のなかで、幼児期の自身が公園を模した演劇の舞台にいる姿を見る。シンジは幼くして母親を亡くし、父親もそばについていない状況。夕闇が迫る公園に子どもたちの親が現れ、友達が家に次々と帰っていくなか、シンジを迎えに来る者は誰もいない。シンジはひとりきり、砂場でネルフ本部を連想させるようなピラミッドを完成させると、それを憎々しい思いで蹴り壊してしまう。だがしばらくすると、シンジは涙を流しながら、またピラミッドを作り始める。

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