社会派サスペンスの秀作『ルース・エドガー』 その「社会派」と「サスペンス」の意味を深掘りする
2021年秋には完全リブート版『バットマン』の公開(パンデミックの影響で制作が遅れているかもしれないが)が控えているマット・リーヴスの出世作『クローバーフィールド/HAKAISHA』(2008年)。ビデオゲーム『アンチャーテッド』の映画化プロジェクトからは降板となったが、『ブラックミラー』や『ザ・ボーイズ』といったテレビシリーズでその確かな手腕を発揮しているダン・トラクテンバーグの出世作『10 クローバーフィールド・レーン』(2016年)。それぞれテイストはまったく異なるものの、両作品ともこよなく愛する自分にとって、紆余曲折を経て結局Netflixオリジナル作品(製作のパラマウントが劇場公開を見送ったと言われている)として配信された『クローバーフィールド・パラドックス』(2018年)は、作品そのものの出来にも、それによってフランチャイズ全体に暗雲が垂れ込めてしまったという点でも、大いに失望させられた作品だった。『クローバーフィールド』シリーズのプロデューサーであるJ・J・エイブラムスはそれまで同シリーズで若手の監督や脚本家(『10 クローバーフィールド・レーン』の脚本にはデイミアン・チャゼルも参加)を抜擢してきたが、その3作目の『クローバーフィールド・パラドックス』で監督を務めていたのがナイジェリア出身のジュリアス・オナーだった。本作『ルース・エドガー』のエンドロールに流れる監督クレジットで、改めてその名前を思い出した時は驚いた。「これ、本当に同じ監督?」。
『ルース・エドガー』は過去に似た作品がなかなか思いつかない極めてユニークな作品なのだが、強引にジャンル分けするならば、「社会派サスペンス」ということになるだろう。しかし、何か大きな社会的事件が起こって、その犯人を巡ってミステリーやサスペンスが駆動していく、といった映画ではない。「サスペンス」の主体となるのは、主人公ルース・エドガー本人。同時期に日本で公開されているはずだった『WAVES/ウェイヴス』(近日公開予定)でも主演を務めたケルヴィン・ハリソン・Jr.演じるその17歳の少年の言動を巡って、高校の歴史教師(オクタヴィア・スペンサー)や里親(ナオミ・ワッツとティム・ロス)をはじめとする周囲の人々が疑念を深めていくことになるのだが、演出として秀逸なのは、物語の最後まで観客も同じ立場に立たされて、主人公の正体や本心がわからないことだ。
「社会派サスペンス」の「社会派」の部分もまた、主人公ルース・エドガー本人のマイノリティとしてのアイデンティティに起因している。内戦中のエルトリアで少年兵だったという凄惨な過去を持つルース・エドガーは、現在生活しているアメリカ社会においても、アフリカ系であること、移民であること、養子であることと何重ものハンディキャップを背負いながら、学業においてもスポーツにおいても討論部での活動においても目覚ましい成果をおさめている。そんな文句なしの優等生であるルースがこれまでと違う言動をするようなった直接的な引き金は、同じ陸上部のクラスメイト、デショーン(Stro名義でラッパーとしても活動しているブライアン・ブラッドリー)の存在だ。ルースのような優等生ではないデショーンは、たった一度の不祥事によって「未来を失った」と嘆き、自暴自棄になる。実際に奨学金や推薦といった制度によってギリギリのところで教育を受ける機会を得ているアフリカ系の、裕福な家庭出身ではない少年にとって、それは事実なのだ。
作品を観終わってからでもいいが、できれば作品を観る前に、本作の理解を深めるために覚えておいたほうがいいのが「リスペクタビリティ・ポリティクス」という概念だ。『ルース・エドガー』が扱っている黒人や移民の問題だけでなく、人種やジェンダー、あらゆる社会的なマイノリティが無意識に社会からプレッシャーとして課されている「差別されないように模範的な行動を取ること」(=リスペクタビリティ・ポリティクス)。そこには、我々が、社会的成功を収めた黒人やヒスパニック、あるいは女性やLGBTQについて語る時に見落としがちな罠がある。彼ら、彼女らは、「完璧でなければならない」というゲームの勝者であり、そのゲームのルールを作ったのは彼ら、彼女らではないということだ。