『家族を想うとき』と『わたしは、ダニエル・ブレイク』は“希望の灯り”に ケン・ローチの熱い想い
集大成的な傑作の完成と、2度目となるカンヌ国際映画祭最高賞獲得によって、ケン・ローチ監督は今度こそ有終の美を飾るはずだった。しかし、問題が噴出し続ける社会状況は、監督にそれを許さなかった。経済格差が広がり、困窮する人々への理不尽な仕打ちは、激化する一方なのだ。ケン・ローチ監督は、引退作であるはずの『わたしは、ダニエル・ブレイク』でフードバンクをリサーチするなかで、新たに描かなければならないと強く感じるエピソードに出会ったのだという。
それは、国でなく民間企業による弱者への非情な扱いだ。次作となった『家族を想うとき』は、個人事業主という立場で会社の仕事を行う「個人事業主契約」の闇が題材となった。
主人公は、ダニエルと同じようにニューカッスルの賃貸住居に住み、介護士の妻とふたりの子どもを持っている中年男性のリッキーだ。彼は宅配ドライバーとして数年働き、家族のためにマイホーム資金を手に入れる計画を立てていた。
ある配送業を営む会社で働こうとすると、そこで仕事をするためには、「個人事業主契約」をする必要があると言われる。法的には従業員でなく、独立した自営業者として会社の仕事を請け負うのだ。この契約のかたちは、日本でも多様な職種で見られるので、日本人にとってもそこで描かれる問題は全く他人ごとではないだろう。
そして、次第に契約内容の欺瞞が明らかになっていく。毎日決まった時間に会社に行って、手配される仕事を受ける。これはその会社の従業員そのものではないのか。しかも、ノルマをこなさないとならないため、残業代も出ない。さらには保障も経費も出ないのである。
リッキーは、会社専用の配送車を自費で購入しなければならなくなってしまう。そして、その車には会社以外の人間や、リッキーの家族を乗せることも禁止されているのだという。リッキーの持ち物なのにも関わらず、その会社の業務にしか使えないというのである。これは会社が負うべき負担が、働き手に押しつけられているといえよう。さらにリッキーはGPSのついた端末を持たされ、本部から常に監視される。配達中にバンを数分離れただけでサボっているとみなされ、時間を分単位で管理されてしまう。配送業界は、ネットショッピングの需要拡大から、安価で迅速な配送サービスを実現するために、その負担を労働者に負わせる状況が続いているという背景があるのだ。
そんな過酷な状況に立たされるリッキーを演じているのは、配管工として20年間働いてきた経験を持ち、40代で演技の仕事を始めた俳優クリス・ヒッチェンだ。イギリスには、ベネディクト・カンバーバッチやトム・ヒドルストン、エディ・レッドメインなど、学歴の高いエリート俳優がひしめいているが、果たして彼らが、この役においてクリス・ヒッチェンの説得力を上回ることができるだろうか。その意味で、イギリスの労働者階級社会で生きてきた俳優こそが、本作の主演に相応しいと思えるのである。
連日の過酷な勤務に、リッキーは家庭に帰ってもただ寝るだけ。仲の良かった家族とも満足に話すことはできず、パートタイムで介護の仕事をしている妻とともに、悩みを持つ息子や、家族の心が離れていくことき心を痛める娘の相手をしている暇もなくなってしまう。生活困窮者は、もはや家族を十分にケアすることも難しくなってきているのだ。
家庭を立て直すため、リッキーはまとまった休みをとることを会社に要求するが、その望みは却下。「休むのなら配送スケジュールに穴を空けたぶんの損害を請求する」とまで言われてしまう。これが対等な「個人事業主契約」などではないのは明らかだ。
怪我をしても何の保障もなく、会社が逆に損害を請求してくる事態に、ついに妻の怒りが爆発する。ダニエル・ブレイクのように、過酷な仕打ちへの不満をぶつけるささやかな抵抗は、見る者の心を揺さぶるはずだ。なぜなら本作もまた、イギリスを含めた、現代社会の多くの労働者に共通している、実際に存在する問題を描いているからである。しかし、一瞬吠えたとしても、状況はさして変わるわけではない。このような保障のない低賃金労働は、経済格差をさらに拡大させ続けていくのだ。