キューブリック版『シャイニング』のパロディのよう? 『ドクター・スリープ』の違和感を考察

キューブリック版『シャイニング』のパロディのよう? 『ドクター・スリープ』の違和感を考察

 スタンリー・キューブリック監督の『シャイニング』(1980年)は、最も親しまれ評価されてきた、ホラー映画の金字塔といえる作品である。その原作者であるスティーヴン・キングが2013年に発表した続編小説を、『ジェラルドのゲーム』(2017年)で、すでにキング作品の映画化を手がけているマイク・フラナガンが監督を務め、新たに作り上げたのが、映画『ドクター・スリープ』だ。

 本作『ドクター・スリープ』は、キング原作の物語に沿いながら、キューブリック版でおなじみの演出やビジュアルが再登場する。それをもって、「確執のあったキングとキューブリックを和解させた作品」だと評価する人もいる。というのも原作者キングは、あのキューブリック版『シャイニング』に対して、かなり辛辣な批判をしているのである。しかし、本当に本作は“和解”になり得るような作品になっているのだろうか。ここでは、本作やキューブリック版『シャイニング』を比較し、ふたつの作品に対するキングの反応の意味を考えながら、ここで感じた違和感について考察していきたい。

 「美しいがエンジンの入っていない車」……。キングはキューブリック版のことを、このように例えている。つまり、「魂が入っていない」という主張である。その理由は、大きく分けてふたつあるという。ひとつは原作の重要な要素である超能力“シャイニング”の存在が希薄になっていること、もうひとつは、家族への愛情と狂気が入り混じる複雑なキャラクターである父親像が崩され、彼(ジャック)を演じたジャック・ニコルソンの演技が、ただ狂気にさいなまれているだけに見えてしまっているという部分だった。キングは、その箇所で人間の葛藤を描き、重要なメッセージを込めている。

 だが、その指摘とは裏腹に、時とともにキューブリックの『シャイニング』は神格化していき、もはや原作よりも認知される作品になっていったといっていいだろう。キングはそんな風潮に対抗するように、1997年に自らが脚本を書き、製作総指揮を務めた、TVドラマ版『シャイニング』を発表したが、内容の面でキューブリックの映画版の完成度に遠く及ぶことはなかった。

 さて、果たしてキューブリック版は、本当に魂のこもっていない作品なのだろうか。たしかにキングの言うとおり、小説にある父親の心理的葛藤という、文学的な部分は無視されているし、展望ホテルのおそろしさばかりが描かれているのは確かだ。しかし、その上でキューブリック版からは、キングの評価とは逆に、原作以上の奥行きが感じられるのだ。

 キングは、徐々に狂っていくはずのジャックが、登場時からすでにまともには見えないことを問題視していた。だが、キューブリック版をしっかりと見ると、謎めいた描写が多いなか、そのことにも意味があるように思えてくる。

 劇中に登場する、家族を惨殺し、猟銃で自分の頭を撃ち抜いたという、展望ホテルの元管理人だったはずの亡霊は、ホテルの給仕の姿でジャックの前に現れる。そして、新たな管理人であるジャックに対して、「あなたこそ昔からこのホテルの管理人です」と述べる。ホールでアメリカが隆盛をきわめた1920年代の人々が集まったパーティーが開かれるように、本作は、現在の時間と過去の時間、そしてもっと過去の時間が同時に存在していることを表現する。

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