キューブリック版『シャイニング』のパロディのよう? 『ドクター・スリープ』の違和感を考察
『シャイニング』のラストカットで、ジャックは最後に映し出される、20年代にホテルで開かれた舞踏会の記念写真の、一番目立つ位置にちゃっかりと写りこんでいる。小説家志望でなかなか作品を書くことができず焦っていたジャックは、展望ホテルのなかの死の世界と出会うことで、家族を捨てて、自ら時間のない世界に吸い込まれてしまった。そこに人間味は存在しない。だがこれもまた、人間の持つ残酷な一面なのではないだろうか。
このような人物像は、ゴシック小説を書いてホラーにおける草分け的な存在となった、アメリカを代表する作家エドガー・アラン・ポーの作品を連想させる。彼の代表作のひとつ『黒猫』は、飲酒や暴力衝動が抑えられない主人公が、殺害した猫に復讐されるという内容だが、この作品で真におそろしいのは、猫ではなく主人公の心理である。彼は亡霊に導かれるわけでもなく、自分自身で残忍な行動を繰り返してしまう。だがそれは、程度の差こそあれ誰にでも備わっている感情かもしれない。そこに、この小説の普遍的なおそろしさがある。
同様に、キューブリック版のジャックもまた、はじめから狂っており、はじめから決まっていた運命にしたがってホテルの一部となり、ジャック自身を待ちわびていたのではないか。このような、美しくすら感じられるおそろしい物語に、“魂”が入ってないといえるだろうか。
キューブリックは、キングの書いた設定を材料として借りながら、意図的に違う物語へと解釈し直したに過ぎない。このように映画化にともなって内容を変更した例というのは、枚挙にいとまがない。もともと、小説と映画は得意とするところが異なるということを考えると、こういった試みは、むしろ積極的に行うべきことなのではないだろうか。キングは、このような当たり前のことに対して、なぜ激しい怒りを見せたのだろうか。
キングは、自身の小説の映画化作品を語るときに、小説の表現は映画の上に位置するということを述べている。つまり、彼のなかでは、あくまで映画は小説の二次的な存在だということだ。筆者はもちろんその考えを共有してはいないが、個人的には、ひとりの小説家が、自分の表現こそ至高だとする意気は、素晴らしいとすら思う。だが、そんな人物が、自分の小説を超えるような文学性を発揮する作品を目の当たりにしたらどうなるだろうか。
『シャイニング』を鑑賞したとき、キングは初めて創作者としての敗北感を味わったのではないのか。映画という媒体で、自分の作品をベースに、より高度なものを作り上げられてしまったとすれば、そんな事態を考えてもいなかったキングとしては、キューブリックの偉業を否定することでしか、自分を支えられなかったのではないか。そして、その頑なな姿勢が、キューブリック版を神格化していく世間の評判によって、より硬化してしまったのかもしれない。
しかし、原作小説がなければ、映画版が存在しなかったのも確かなことだ。優れた設定があり、それを見事に解釈し直したことで、映画『シャイニング』という素晴らしい作品が生まれた。だから、映画『シャイニング』は、結果的にキングとキューブリックの合作と呼べるところもあるはずだ。キングがそのポジションをよく思わなかったにしても。
映画『ドクター・スリープ』の内容を、キングは絶賛している。それはそうだろう。もともと『ドクター・スリープ』の原作小説は、キューブリック版『シャイニング』へのキングの違和感をぶつけた部分が随所に見られる作品だった。そして、それを映画化した本作は、キューブリックの演出をそのままとり入れながら、それらの映像をキングの望む方向に再解釈している。つまり、原作小説を好き勝手に変更したキューブリック版に対して、今度はキューブリックの演出を、キングの物語に従属させるのである。マイク・フラナガン監督の意図がどうあれ、本作は、和解どころかキングの意趣返しのようなものに、結果的に同調してしまっているように見えてしまう。