キューブリック版『シャイニング』のパロディのよう? 『ドクター・スリープ』の違和感を考察
だが問題は、映画の出来である。キューブリック版『シャイニング』がそうであったように、どんなやり方であれ、最終的に素晴らしい作品にしてしまえば、あとはどうにでもなるはずである。
本作『ドクター・スリープ』は、キングの小説に従って、幽霊などの恐怖描写よりも、“超能力”の要素の方が強い存在感を発揮している。主人公ダニーを演じるのは、ユアン・マクレガー。あの惨劇を生き残り、父親のようにアルコールに溺れる、40代の大人になっていた。彼は同様に超能力を持ったアブラと知り合い、殺人を繰り返す謎の集団の凶行を止めるべく、共闘するようになる。
終盤にかけて繰り返されるサイキックバトルは、キューブリック版『シャイニング』とは似ても似つかない内容だが、かなり楽しめることは確かだ。カメラを引いた、いわゆる“ロングショット”で撮ったことで、キングから人間に寄り添わない映画だと批判されていたキューブリックとは違い、演技をする出演者たちの表情に近寄って、ときには悪役でさえも身近に感じられるフラナガンの演出は、情緒的でキング作品のイメージに合っている。
特徴的で面白いと思った演出もある。ダニーとアブラが会話するシーンでは、それぞれを映したカットが何度も繰り返される。カメラのレンズが写しとった彼らの背景には、“玉ボケ”と呼ばれる、光の玉のような、現実には存在しない物体が存在しているように見える場合がある。年をとって超能力が衰えたダニーの背景にはいくらかの光の玉が、そして全盛期のアブラの背景には、より多い輝くような光の玉が見える。どこまで狙ったかは分からないが、このような“映像的”な表現を、作品のなかでなし得たのは素晴らしい。
とはいえ、本作にはキューブリック版の圧倒的な美しさや緊張感に代わるほどの魅力までは出せていないように感じられる。それはやはり、キングの意図を捻じ曲げてまで、自分のやりたいものを追求するという姿勢に欠けているからだろう。キングが絶賛していることからも分かるように、本作はキングの想定のなかに収まる程度に“面白い”。しかしキューブリック版のように、それを超えて、観る者の感覚や、ややもすると今後の人生まで狂わせてしまうほどの魔力を持っているとは思えない。そもそも、フラナガン監督ははじめから、そのような大それたものを本作で作り上げる気はないのだろう。
問題は、展望ホテルが舞台になる終盤部分である。ここでは、まるでパロディのように、キューブリック版『シャイニング』に登場した展望ホテルの住人にそっくりな役者が、次々に登場する。だが彼らは、まるで往年のお笑い芸人が、むかし流行った一発ギャグを披露するように、同じ行動、同じセリフを繰り返すだけだ。しかも、謎に包まれていた彼らの行動原理が何だったのかを、あっさりと明確に描いてしまう。キューブリックが生み出した謎めいた世界や、その住人たちは、ここでとてつもなく陳腐化してしまっているように感じられる。あの凄まじい、血の降りてくるエレベーターの映像ですら、一笑に付されて片付けられるのだ。
キューブリックが原作と違う表現を目指したのは、原作への当てつけだったり、原作の表現を失墜させようと意図したものではないだろう、仮にそのような悪意が混じっていたとしても、自分がより良い作品を作ろうとするために、映画ならではの演出に行き着いたはずである。
それに比べると、本作のキューブリックの演出の解釈は、あまりにも表面的で安っぽいものになっていて、尊敬に欠けている。こんなことでキューブリック版の価値にまで傷がつくわけではないだろうが、『シャイニング』の原作小説とキューブリックの映画の両方に感動した筆者としては、今回、キューブリックの側にだけ泥を塗られたような感覚がぬぐえない。
■小野寺系(k.onodera)
映画評論家。映画仙人を目指し、作品に合わせ様々な角度から深く映画を語る。やくざ映画上映館にひとり置き去りにされた幼少時代を持つ。Twitter/映画批評サイト
■公開情報
『ドクター・スリープ』
全国公開中
原作:スティーヴン・キング『ドクター・スリープ』(文春文庫刊)
監督・脚本:マイク・フラナガン
出演:ユアン・マクレガー、カイリー・カラン、レベッカ・ファーガソン
配給:ワーナー・ブラザース
(c)2019 Warner Bros. Ent. All Right Reserved
公式サイト:www.doctor-sleep.jp