新聞よ、あなたはどこへ行く? 森達也監督が『i -新聞記者ドキュメント-』に込めた“兇暴”な意図
このドキュメンタリー映画を見終えた今、じっさいのところ、底知れぬ不安に駆られている。『i -新聞記者ドキュメント-』(以下、『i』と表記)を見る観客は果たして、ひとりのきわめて優れたキャリアウーマンに密着した緊迫感溢れるドキュメンタリーであるとだけ、つまりはそこに元気印の、やり甲斐とかエネルギッシュな人生の、喜ばしき生の記録としてのみ認識するものだろうか? 筆者はこの映画の主人公にリスペクトのまなざしを向けると共に、どうかご無事でと念じざるを得ない。それほどまでにこの社会は不穏さを増し、信用の置けぬものと変わり果ててしまった。
『i』の主人公、「東京新聞」の社会部記者・望月衣塑子は、つねに大荷物を丸抱えしたまま移動する。小柄な体格ゆえに、その大荷物はなにやら苦行にも見える。カメラは、取材先から取材先へ足早に移動してやまぬ彼女の歩行に次ぐ歩行を、後方から追いすがるように収めていく。手前勝手な連想を披瀝させてもらうなら、スペインの巨匠ルイス・ブニュエル監督の『アンダルシアの犬』(1928)に、主人公らしき男(ピエール・バチェフ)が愛する人(シモーヌ・マルイユ)のアパルトマンを訪ねてくるシーンがある。男はガラクタから楽器、誰とも知れぬ死体にいたるまで、ありとあらゆる荷物を重そうに引きずって彼女の部屋に到着するのだ。その姿はまさに「人生のお荷物」という名の道行き。罪を着せられたイエスが、みずからの身体を磔にする十字架を抱えて歩くゴルゴタの丘に、その範は遡るだろう。
方向音痴だという望月記者が総理官邸や議員会館の館内を右往左往し、会見の開始に遅刻する彼女の後ろ姿をカメラが写す時、完璧な人間などいないというごく当然の印象を観客は与えられてリラックスするかとは思う。しかし、じつのところ、このドキュメンタリーの作者はそこに孤独な影を見ている。方向音痴をしっかりと自己認識しつつ、右往左往し、スケジュールを狂わせるだけの才覚の持ち主は、私たち現代人のいったい何%存在するだろうか? 私たちの大部分は右往左往することさえも忘却し、右往左往する者を嘲笑するばかりだ。そんな現代日本人の無責任体質を、このドキュメンタリーの作者、森達也はこれまでの作品において、特殊な取材対象を通じて撃ってきたのではなかったか? オウム真理教を被写体とする『A』(1998)、『A2』(2001)、2014年にゴーストライター騒動をおこした佐村河内守に密着した『FAKE』(2016)などでは、決まりきった対象に絞って取材撮影を進めているが、その実、森達也はこの社会そのものを対象に映画を作っている。
森達也のドキュメンタリー手法は、今回の『i』でも顕著なように、作者サイドの一人称性が鬱陶しいくらいに台頭し、画面にある種の「不純さ」をまぶしていく。無色透明な客観的記録映画を森達也は撮ることができない。自己顕示欲と自作破壊欲の両方がない交ぜとなった意識でカメラアイは濁り、主人公像と作者像が織り重なり、入れ違い、変節していく。今回にしても望月記者の日々の動向を粛々と撮っているだけで素晴らしい社会派ドキュメンタリーが出来上がるはずなのに、わざわざ撮り手の森が介入するのだ。そして介入者・森はあくまで「その道のルーキー」のカマトトぶりを貫き通す。菅義偉官房長官の会見に「入れろ」「入れない」の警備担当警察官との押し問答をくり返す森の姿は、少しばかりユーモラスではあるけれど、そして日本の記者クラブ制度の閉塞性を身をもって突こうとはしているのだけれど、正直に言うとナイーヴすぎる。ただ単に取材権を持つ理解者にカメラマンとして協力してもらえばよいではないか? 自分でカメラを回さなければ、何かが失われるというのだろうか?
森達也のやり方はそういうことなのだろう。気の利かない密着者、考え抜かれていない質問者、準備の足りない取材者。いくつもの欠損、瑕疵を引換えに、あるいはその頬っかぶりを楯に、彼は多大な戦利品を手にする。ドキュメンタリーとはいえ、ネタバレを避けねばならないから、ラストシーンの詳細を説明することは控えたい。ただひとつだけ、このラストにおいて、ある挑戦的なカットバックがーー時空間を離れた者同士のカットバックがーーあるいは、交わるはずのない者同士の視線の交わりを捏造するカットバックがーー現れる。ここにおいて、森の兇暴な意図によって別の文脈が生起していることに、私たちは気付かねばならない。