『マレフィセント2』はディズニーアニメに対する自己批判だ ヴィラン相対化時代に描かれたもの
現代映画──とくにハリウッド映画界では、知名度の高いヴィラン(悪役)を主役に昇格させ、彼らの側に寄り添ったスピンオフ映画の製作が花盛りとなっている(例:もちろん『ジョーカー』や『ヴェノム』)。ディズニーアニメの不朽の名作『眠れる森の美女』(1959)でオーロラ姫に16歳の誕生日に永遠の眠りにつくという呪いをかける魔女マレフィセントも例外ではない。アンジェリーナ・ジョリーという強力なキャスティングを得て製作された『マレフィセント』(2014)も、そうしたヴィランの相対化に一大鉱脈を発見した流れの中にある。
もっともそんなことは昔からお馴染みの既成事実だ。いくどとなく映画化された日本の時代劇『大菩薩峠』のヴィラン、机龍之介の虚無的な色香はなんとも抗しがたい魅惑を放っていたし、アメリカ映画史上最高の放蕩者オーソン・ウェルズ(『アーカディン/秘密調査報告書』『黒い罠』など)はヴィラン相対化に生涯苛まれた映画作家だろう。『スター・ウォーズ』サーガにしたところで、善玉のルークより悪玉のダースベイダーの方が画面映えするように作られている。「奴らも好きで悪玉になったわけじゃない。連中の言い分も聞いてやろうじゃないか」。……しかし、そこにこそ陥穽があるのも事実。ジョーカーよりもヴェノムよりも、そしてマレフィセントよりも、もっと悪い連中がいるぞという論法しかない。「もっと目を凝らして、社会を見ろ」……するとそこには注文通り、もっと悪くてずるい輩が登場し、ヴィランたちははからずも自身の仇だったはずのスーパーヒーローの真似事を始めざるを得ない状況となる。
だから、ヴィラン相対化時代の現代映画は、つねに/すでに自問自答に充ち満ちた風刺喜劇の様相を呈する。それは徹底的なディフェンスの映画ということであり、悪役が防御に迫られたとき、ヒロイズムの二毛作が始まる。ジョーカーやヴェノムが現代アメリカの風刺であることは誰の目にも明らかだが、おどろくべきことに、『マレフィセント』もまたディズニーアニメに対するディズニー社自身によるやや物憂げな風刺喜劇なのだ。「ちょっと待って。姫を眠らせたあの気持ち悪い緑色の肌をもつ魔女ですら、彼女なりの言い分がありますよ」。アンジェリーナ・ジョリーは共同プロデューサーも兼ねつつ、魔女マレフィセントというキャラクターの再構築に余念がない。青白く冷酷な顔色、いかつく突起した頬骨、ブラックを基調とした衣裳、クスリとも笑わないニヒルな性格。これらの第一印象は、そのじつ温かい真心の存在を後半に大逆転劇として誇示するための、前半のエサ撒きの敗色的手法だ。
ストーリーテリングの手法は日本のやくざ映画とさして変わるわけではない。物語後半までは、世の中をはかなんでニヒルに構えたヴィランの、人の世の強欲さを警戒してやまぬヴィランの、我慢に次ぐ我慢を描写してみせる。そうしておいて、堪忍袋の緒が切れるほどの強欲に駆られた人間どもーー前作『マレフィセント』におけるステファン王(シャールト・コプリー)、新作『マレフィセント2』におけるイングリス王妃(ミシェル・ファイファー)ーーによるだまし討ちを観客参加でまのあたりにさせる寸法だ。人間さえ何もしでかさなければ、ヴィランたちは自分たちの領分で、誰にも迷惑もかけずに幸福だったはず。でもそんな均衡を侵したのは強欲な人間どものほうだーーという心理構造だ。