『空の青さを知る人よ』が示した岡田麿里のネクストステージ 『さよ朝』以降の作風から考える

『空の青さを知る人よ』岡田麿里の次のステージ

 『荒ぶる季節の乙女どもよ。』とセットで着目したいのは『惡の華』だ。テレビアニメ化も果たした押見修造の人気原作を実写映画化した作品であり、岡田は原作の持つ青少年の鬱屈した感情や、性の悩みを抑えることなく過激な性表現を生かす脚本を書いている。中学生の主人公、春日高男がクラスのマドンナである佐伯奈々子や、孤立している仲村佐和の存在を気にしていると、同級生が高男をからかう姿に自分の学生時代を思い返してしまう人もいるのではないだろうか。同じ文学好きの主人公ということもあり共通するものが多く、文学少女の性の悩みをポップに描いたのが『荒ぶる季節の乙女どもよ。』であるのに対して、文学少年の性の悩みをシリアスに描いたのが『惡の華』と言えるだろう。

『惡の華』(c)押見修造/講談社(c)2019映画『惡の華』製作委員会

 『荒ぶる季節の乙女どもよ。』の5話では、文芸部員の菅原新菜がロリコンの舞台演出家、三枝に好意を寄せられた過去が明かされる。しかし三枝は「菅原新菜の少女性を愛しており、その肉体に手を出して少女性をなくしてしまえば魅力がなくなってしまう」と話す。これは生身ではなく、概念としての少女を愛しているということだ。この考え方は『惡の華』にも共通する。理想のマドンナである佐伯奈々子と、自身を破滅に導くとわかりながらも仲村佐和に惹かれてしまい翻弄される春日高男は、2人の理想の女性像という概念に振り回されていると言える。『惡の華』に登場するもう1人の少女、常磐文を理想の女性という概念から解き放たれた後の現実の女性と解釈すると、『荒ぶる季節の乙女どもよ。』で描かれた概念や知識としての性に翻弄されながらも、現実の性を体感し成長する姿と共通するものがある。

 岡田作品のもう1つの特徴としてあげられるのは親、特に母親との確執だ。シリーズ構成を務めたオリジナルテレビアニメの『true tears』や『あの花』『心が叫びたがってるんだ。』(以下、『ここさけ』)でも親子の確執は重要な問題として描かれていた。初監督作品である『さよ朝』に関してはその親子の関係性をメインのテーマに設定しており、このテーマに並々ならぬ思いがあることを伺わせる。

 しかし『空の青さを知る人よ』では、親子の問題は全くと言っていいほど描かれない。冒頭にて、主人公の相生あおいの両親は事故で亡くなったことが明かされ、姉である相生あかねが育ててきたこと、そしてあおいが、幼さゆえに姉を頼り独占し、自分のせいで姉が町に縛られてしまったという後悔の思いが描かれている。過去の作品では、主人公が子供目線から親へと並々ならぬ感情をぶつける様が描かれたが、今作ではその視線は描かれないのだ。

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