PFFグランプリ『オーファンズ・ブルース』が描く“永遠の夏” 青春の道の先に待つものとは

 このように工藤梨穂の劇場デビュー作となった本作『オーファンズ・ブルース』には、レオス・カラックスをはじめとして、ウォン・カーウァイなど巨匠と呼ばれる映画作家たちに影響を受けたその感受性が素直に認められる。彼女は直接的に引用することすら厭わず、自らの映画史的記憶をそのフィルムに乱反射させながら、"日本映画"あるいは"女性映画"などと一言で括ってしまうことも憚れられるような独自性を泰然と放っている。

 映画がどこか非日常的な雰囲気を醸し出しているのは、その無国籍な空気感に拠るものだけではない。唐突に、そして何の脈絡もなく挿入されるいくつかの現実離れした鮮烈なショットもその雰囲気に加担する。たとえば、エマが歯磨き粉を出そうとしてなかなか出せずにいると次のショットでは部屋の中にいたエマと、ヤン同様に仲の良かった幼なじみのバン(上川拓郎)が草原の中に移動している。新緑が占める画面の中に佇む若者を目撃してただちに胃がキリキリと痛むような青春の刹那なる残酷さが想起されるのは、かつて岩井俊二が『リリイ・シュシュのすべて』(2001年)を、青春映画史に残したからかもしれない。

 本作が着想を得たという寺山修司の夏についての一節「夏は、終ったのではなくて、死んでしまったのではないだろうか?」が書かれた『ひとりぼっちのあなたに寺山修司メルヘン全集3』(1994年、マガジンハウス)にはまた、こんな一文がある。「青春というのは、幻
滅の甘やかさを知るために準備された一つの暗い橋なのだ」。

 終盤、バンとエマは二人乗りをしながら背中合わせで自転車を走らせる。同一の枠の中におさまりながら、そして同じ場所へ向かいながら、二人の視線はまったく正反対の方向を向いている。二人が走るその青春の道の先には何が待っているのか。何を知るために準備された道なのか。甘美な絶望と不安定な希望を同時に感じさせながら、二人は走っていく。時折エマとバンが懐中電灯やCDディスクでお互いに光を当て合い戯れてみせるのは、二人が寺山の言うところの“暗い橋を渡っている”ことに対する暗示なのかもしれない。

 夏にはじまり、夏に終わる映画。この映画における夏、それは記憶についての土壌であると同時に、青春についてのユートピアでもある。ひとたび季節が移ろえば、冬の寒さが夏の暑さを忘れさせてしまうように、冬が訪れたなら、きっとエマは誰よりも早く夏のことを忘れ去ってしまうだろう。だから夏は忘れ去られぬためにこそ、永遠に続いていく。夏はエマのほとばしる生を駆動する。消えていくエマの記憶の星雲の中に、会いたかった人は存在する。そして、だからと言うべきか、いやそれでもと言うべきか。宇宙は細くなってく。永遠に終わらない夏の中で。 

■児玉美月
大学院ではトランスジェンダー映画についての修士論文を執筆。
好きな監督はグザヴィエ・ドラン、ペドロ・アルモドバル、フランソワ・オゾンなど。Twitter

■公開情報
『オーファンズ・ブルース』
5月31日(金)〜6月6日(木)テアトル新宿ほか、全国順次ロードショー
監督・脚本・編集:工藤梨穂
出演:村上由規乃、上川拓郎、辻凪子、佐々木詩音、窪瀬環、吉井優
撮影:谷村咲貴
録音:佐古瑞季
照明:大崎和
美術:柳芽似、プロムムアン・ソムチャイ
衣装:西田伸子
メイク:岡本まりの
助監督:遠藤海里、小森ちひろ
制作担当:池田有宇真、谷澤亮
2018/日本/カラー/16:9/5.1ch/89分
公式サイト:http://orphansblues.com/

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