『THE GUILTY/ギルティ』から考える「デスクトップ・ノワール」 変容する視覚と聴覚の関係とは

『THE GUILTY』から見る現代映画

『THE GUILTY/ギルティ』における聴覚的要素の優位

『THE GUILTY/ギルティ』(c)2018 NORDISK FILM PRODUCTION A/S

 さて、さしあたり以上のように文脈を立てると、直接的にはデスクトップ・ノワールには区分し難い『THE GUILTY/ギルティ』の個性的なコンセプトや画面も、同様のアクチュアリティをもってわたしたちの前に迫ってくる。『THE GUILTY/ギルティ』は、緊急ダイアルの一室だけを舞台に、ほぼ主人公のヘッドフォーンから聴こえるサウンド(音と声)だけで、ある誘拐事件の顛末が描かれるという、きわめてシンプルな構成のリアルタイムサスペンススリラーである。主人公であるアスガー・ホルム(ヤコブ・セーダーグレン)は、自らもある罪=事件がきっかけで警察官の第一線から緊急通報司令室オペレーターに左遷されてきていた。自転車泥棒から交通事故による緊急手配にいたるまで、日々、些細なトラブルに対応するだけの毎日のなか、あるとき、一本の不穏な声の電話を受ける。それは、いままさに高速道路上を疾走する男の車に乗せられ、誘拐されている女性からのものだった。アスガーはヘッドフォーンを通じて鼓膜に響く電話からの音だけを頼りに、「見えない誘拐事件」の解決に踏みだす――。

『カメラを止めるな!』(c)ENBUゼミナール

 いうまでもなく、本作の妙味は、あたかも演劇の一人芝居のように、ワンシチュエーション/リアルタイムという設定上の拘束とともに、作中で描かれる肝心の事件そのものがいっさい視覚的に描かれず、すべて聴覚=音声だけで示されるという奇抜な趣向にある。この点では、演劇的構成との近さという面でも、本作を『カメラを止めるな!』(2018)や『ハッピーアワー』(2015)など、近年の日本のインディペンデント映画作品との関係から比較して論じることも可能だろう。

Netflixオリジナル映画『バード・ボックス』

 まず、「リアルサウンドテック部」に寄稿したバーチャルカメラについてのコラムでも記したことだが、もとより、こうした見えない/見せないという視覚的要素の地位低下と、その反対に、聴こえる/触れるという聴覚・触覚的要素の地位向上というのは、昨今の映画の物語空間のいたるところに広がっている目立った特徴であり、その点では『THE GUILTY/ギルティ』もそれを忠実に踏襲した映画だ。緊急ダイアル室であれ一軒の家屋であれ、あるいは外界から遮断した布のなかであれ、ある「密室」に固定され、しかも、そこでは登場人物たちにとって「音」だけが唯一の頼りになるという状況設定において、本作のアスガーは、たとえば『バード・ボックス』(Bird Box, 2018)のマロリー(サンドラ・ブロック)とぴったり重なっている。

視覚と聴覚の関係の逆転現象

 思えば、上記のコラムでもその文章を参照した映画批評家の蓮實重彦は、いまから10年あまり前、「あらゆる映画はサイレント映画の一形態である」という奇抜な主張を行ったことがある。

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一般に「映画」という語彙で知られている視聴覚的な表象形式が、娯楽としてであれ芸術としてであれ、その消費形態のいかんにかかわらず、一〇〇年を超えるその歴史を通して、音声を本質的な要素として持つことはなかったというものであります。[…]
映画の撮影は、こんにちにいたるも、音声がこうむるこうした複数の拘束からいささかも自由になってはおりません。キャメラは、サイレント期とまるで変わることなく撮影クルーの中心に君臨しているからです。[…]あらゆる映画が本質的にはサイレント映画の一形式だという仮説は、そうした現実をふまえたものにほかなりません。

(蓮實重彦「フィクションと『表象不可能なもの』――あらゆる映画は、無声映画の一形態でしかない」、石田英敬、吉見俊哉、マイク・フェザーストーン編『デジタル・スタディーズ第1巻 メディア哲学』所収)

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 ここで蓮實は、撮影所システム時代の技術的・物理的な制約から「ホロコーストの表象不可能性」をめぐる一連の論争、そして「9・11」のニュース映像まで多彩な事例を示しながら、「映画」という20世紀が生んだ特権的な複製メディアが、いかにその本質に「声」という現前性への禁止を抱えこみ、「視覚の優位性」を維持し続けてきたかを述べている。

 しかし、誰の目にも明らかだが、繰りかえすように、2010年代末の現代映画のハードコアが示す「音声を本質的な要素として持つ」作品の大規模な台頭は、この蓮實の主張(映画における本来的な視覚的要素の優位と聴覚的要素の劣位)とは真逆の事態だろう。それもそのはずで、たしかに映画に限っては蓮實のいうとおりだろうが、現代のわたしたちを取り巻くスクリーンの多くは、蓮實の念頭に置く「映画」とは決定的に遠く隔たっており、ひるがえっていまや映画の画面もまた、こうした新しいスクリーンの秩序や慣習を精緻に「擬態」しつつあるからだ。

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