『少女邂逅』『志乃ちゃんは~』『カランコエの花』……拡大する“ガール・ミーツ・ガール”映画
女の子と女の子が出会い、心を通わせたのち、あることを契機に別れてしまう……。青春映画の定型としての「ボーイ・ミーツ・ガール」(あるいは「ガール・ミーツ・ボーイ」)とは対照的に、『少女邂逅』からはじまり、『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』、『カランコエの花』と、2018年は「少女が少女に出会う」ことで物語が動き出す「ガール・ミーツ・ガール」の青春映画が注目を浴びていた。本稿では、代表的な作品を振り返りながら、なぜこの年にそうした作品が集中し、注目を浴びたのか考察してみたい。
『少女邂逅』
まずは、1994年生まれの新鋭・枝優花監督による初長編映画『少女邂逅』。その題名からもわかるように「少女と少女の出会い」をドラマティックかつトラジックに描いた青春映画だ。本作は『MOOSIC LAB 2017』にて初披露され、観客賞を受賞。さらに、バルセロナ・アジア映画祭で最優秀監督賞を受賞するなど、日本国外でも評価されている。
少女と少女は、出会うべくして出会う運命にあった。主人公の小原ミユリ(穂志もえか)は、いじめをきっかけに声が出なくなってしまった18歳の少女。山の中で拾った蚕を「紬(ツムギ)」と名付けて大切に育てることで、なんとかこの世界に生をつなぎとめている。しかしある日、いじめっ子に蚕の存在がバレて、山の中に捨てられてしまう。唯一の生きがいを失い、またミユリ自体もスカートを捲り上げられて蚕のような様相になってしまったところに、富田紬(モトーラ世里奈)という名の少女が、かすかに射す光の方からミユリを助けにやってくる。こうして彼女たちは邂逅を果たす。
この映画の重要なモチーフである「蚕(カイコ)」は、監督も公にしているように「邂逅(カイコウ)」につながる言葉遊びだ。また、若さや見た目などの表面的なものに価値を置かれ、内面を蔑ろにされることが多い「少女」の姿が「蚕」に重ねられている。
物語の中盤で、「蚕は、互いが近づきすぎると糸が絡まってしまうため、部屋を分けて育てる必要がある」と生物の教師が言う。この言葉が映画のアクセントになっており、同じ部屋(=教室)の中にいながら、互いに、真に分かり合うことができない学生たちの姿を暗喩しているのだ。そんな中で、蚕のような姿になったミユリを紬が助ける冒頭のガール・ミーツ・ガールや、自転車の二人乗り、電話ボックスでの雨宿りなどに顕著なように、紬だけは、その「壁」を飛び越える存在として描かれていく。そしてミユリは、その存在に驚き、恋をし、生きる意味を与えられていくのだが、前触れのない「出会い」の場面と同じく「別れ」も突然、訪れてしまう。互いにわかりあえていたはずが、実は見えていなかった紬の裏側を知るラストシーン。それは内面の見えない「蚕/少女」というイメージと重なる。
映画評論家のローラ・マルヴィが、ハリウッド映画における「男性視点によって女性を性的対象化する視線」に対して批判的に名づけた<male gaze>という言葉がある。雑誌『i-D JAPAN No.6』では、その言葉の対義語として<female gaze>という造語を提示し、女性クリエイターのみで一冊のファッション・カルチャー雑誌を作り上げる特集が組まれていた。(※1)この言葉に明確な定義付けはされていないが、外見を性的対象化した<male gaze>との対比だとすると、それは「内面へ向けたまなざし」のことなのかもしれない。『少女邂逅』は、外側を重要視される「蚕/少女」の内面にまなざしを向けようとしている。