『四月の永い夢』が描く、喪失感からの解放 “気づき”によって世界は“詩的”なものへ

『四月の永い夢』が映し出す“喪失感”の背後

「私はずっと四月の中にいた」

 さて、どんな夢を見せてくれるのだろうか。そんなことを考えながら劇場の暗闇に身を委ねていると、主人公・滝本初海(朝倉あき)が、穏やかに、しかし媚びずに毅然とした態度で語りかけてくる。詩人であり映画作家である中川龍太郎の最新作『四月の永い夢』は、ひとりの女性が“喪失感”から解放されていく姿を、春のまどろみの中で見る夢のような優しさで描いている。

 「喪失」などと言葉にすれば、なんだかものものしい感じがするが、誰しも多かれ少なかれ、もちろん私もあなたも、日々なにかしらを喪失しながら生きている。小さな子供だってそうだろう。それを自覚することこそが、“喪失感”のはじまりである。主人公の初海は、3年前に恋人を亡くし、いまだにその喪失感に囚われた日々を過ごしている。彼女は朝目覚め、歯を磨き、パンを食べ、家を出る。そんな、なんの変哲もないかに見える日常に、かつての恋人の母親から一通の手紙が舞い込んでくる。それは生前の恋人が彼女に書き遺していたものだというのだ。

 仕事先へと向かうべく玄関に降り立ったところで手紙を手にするのだが、朝の目覚めからこの瞬間までの彼女の一連の動作には淀みがなく、リズミカルに映し出されるそのさまは、これが日々のルーティンであることを物語る。彼女は元教師であったが、恋人の死がきっかけで離職し、いまだに復帰できないでいる。この手紙を手にしたことは、よりいっそう彼女に喪失を自覚させ、バイト先であるそば屋の出勤に、つい遅れてしまう。その彼女にそば屋の店主は、「珍しいね」と口にする。彼女は普段は遅刻をしない。ここまで描かれている時間が、とある1日の午前中のことだけにもかかわらず、開巻からものの数分間だけで、彼女の“変わり映えしない日常”と、この手紙が彼女に与える影響の大きさとを端的に示す手腕の鮮やかさに、ぐっと引き込まれていく。

 ある日、初海は映画館で一本の映画を観る。言わずと知れた名作『カサブランカ』だ。彼女が見つめるスクリーンに投射されるのは、イルザ(イングリッド・バーグマン)がサム(ドーリー・ウィルソン)に「As Time Goes By」を歌ってとせがむ、有名な場面。ウィルソンのその歌声に聴き入るバーグマンは、とたんに神妙な面持ちへと変わりはじめる。それは初海がときおり見せる顔と近いものであった。たしかに初海は、3年経っても癒えることのないほどの大きなものを失っている。しかし劇中に見られるかぎり、彼女は多くのものを得てもいるのではないだろうか。かつての教え子との再会により変化する日常、バイト先のお客さんとの少しだけ変わる関係性。これらは彼女が得ているものである。しかしそれら得たものは、気づかぬうちに喪失感の背後へと押しやられ、彼女自身が自覚できていないだけなのだ。

 劇中には絶え間なくセミの鳴き声が響き、日を浴びた緑は力強く、風鈴は揺れ、子供たちは水遊びに興じ、花火が上がる。夏なのだ。だが彼女のまわりだけ、いまいち夏が感じられない。大学時代の友人・朋子(青柳文子)が、ハンドタオルで自らの顔をぱたぱた仰ぎ、浮かんでくる汗を拭っていようとも、初海の肌には風に揺れる前髪さえ張りつきはしないのだ。

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