ひとりの少年を通して世界と出会う 『泳ぎすぎた夜』が思い出させる“自由な冒険心”

『泳ぎすぎた夜』が思い出させる自由な冒険心

 常識、ルール、他人の視線、しがらみ……社会という大きな枠組みの中で年齢を重ねていくと、あまりに自由であった子どもの頃のことを、つい忘れてしまいがちになる。『息を殺して』(2014)などの五十嵐耕平と、フランス映画『若き詩人』(2015)などのダミアン・マニヴェルがともに手がけた『泳ぎすぎた夜』は、青森の雪原を舞台に繰り広げられるひとりの少年の冒険譚を描き、誰もが持っていたであろう、自由な冒険心を思い出させてくれる。

 雪がしんしんと降り続ける夜明け前、とある一軒の家屋で物語は幕を開ける。一家が寝静まっている中、漁業市場に勤める父は、ひとり職場へと向かう。その息子である6歳の少年は、翌朝、登校途中にみんなの通学路からひとり外れてしまい、父のいる市場を目指す大冒険が始まるーー。

 本作の主人公は、このひとりの少年。演じる古川鳳羅(こがわたから)くんは実際に青森に住む小学生で、彼の父、母、姉も、そのまま家族で出演している。ロケーションハンティングで弘前を訪れていた監督たちは、偶然見かけたこの鳳羅くんの自由奔放ぶりに魅了され、スカウトしたのだという。たしかにこの少年には、その一挙一動に魅せられる。どこからどこまでが作り手たちの意図によるものなのかが分からない、彼の持つ自由過ぎるエネルギーに、映画そのものが引っ張られていくかのようなのだ。子どもを主人公に据えた作品は、古今東西たくさんある。しかし、それらのどれとも本作が違うのは、この少年があまりに自由で、予測不能な存在だというところにある。

 父が出て間もなく、世間の子どもたちはぐっすり夢の中だというのに彼はのそのそとやってきて、家中がまだひっそり静まり返る中、灯りもつけずにキッチンでスナックのようなものをつまんでいる。これには登場そうそう面食らってしまう。しかし起き抜けにスナックを食べたらいけないなどと、誰が決めたのか。“起き抜けにスナックを食べはしない”というのは、観客のうちのひとりである筆者だけの(おそらく大半の方がそうだと思うが)常識だ。彼はこれに続いて朝も早くから次々と、こちらの予想だにしない行動を重ねていく。そうしていただけに、やはり陽が昇ってからも寝ぼけ眼をこすりながら、とぼとぼと学校へと向かうが、ふいにその道をはずれてしまう。

 こうして彼は父を目指しての大冒険に繰り出していくのである。通学路をはずれたかと思えば、ひとり川べりを危なっかしく歩き、ふかふかの雪があれば寝転がる。さらには、雪の中に隠してあったみかんをかじり、犬に吠えられれば負けじと吠え返し、かと思えば、ところかまわず寝入ってしまう。何をしでかすか分からない彼の無軌道な足取りは、愛らしいと同時に少しだけ恐ろしくもある。ちびっ子が主演のほっこりムービーでありながら、全編にわたって心地よい緊張感がみなぎっているのだ。たしかに一つひとつの行動は予測不能だが、思い返してみればこんな子どもに心当たりがある方も多いのではないだろうか。あるいはそれは観客の誰もがどこかに置き去りにした、かつての幼き頃の自分の姿なのかもしれない。

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