“人生への渇望”がある限り、踊り続けるしかないーー『T2』が20年の歳月で示したもの
そこで、傍と思うのだ。「時間」とは、いったい何なのかと。その意味で、若い恋人に向けて、ドラッグ中毒だった自分たちの過去を語りながら、気が付けば現代特有の“中毒”について興奮気味に語り始めるレントンのシーンは、この映画の白眉だった。「未来を選べ」。かつての彼にとって至極命題だったテーマは、今どうなっているのか? レントンは舌鋒鋭く、ハイテンションで一気にまくしたてる。
「フェイスブック、ツイッター、インスタグラムを選び、赤の他人に胆汁を吐き散らせ。プロフ更新を選び、“誰か見て”と、朝メシの中身を世界中に教えろ。昔の恋人を検索し、自分の方が若いと信じ込め。初オナニーから死まで、全部投稿しろ。(中略)過去の繰り返しをただ眺め、手にしたもので妥協しろ。願ったものは高望み。不遇でも虚勢を張れ。失意を選べ。愛する者を失え。彼らと共に自分の心も死ぬ。ある日気づくと、少しずつ死んでた心は空っぽの抜け殻になってる。未来を選べ」。
それは、現代社会に対する痛烈な批判であると同時に、いつの間にか、そんな大きな流れに踊らされてしまった自分自身への懺悔でもあるのだった。「未来を選べ」。かつては魅力的に響いた言葉も、今となってはもう、選べる未来があるかどうかも定かではない。残酷なのは時間なのか。否、この世界そのものが残酷なのだ。では、どうすればいい? 結局のところ、その「残酷さ」を踏み越えて生きるしかないのだ。『トレインスポッティング』シリーズの実質的なテーマソングである、イギー・ポップの「ラスト・フォー・ライフ」になぞらえて言うならば、“人生への渇望”。それがわずかでもある限り、僕たち/私たちは、この世界で生きていくしかないのだ。
確かに「時間」は残酷だ。時間がすべてを解決するわけではないし、すべての人間を成長させるわけでもない。けれども、レントンは映画の最後、序盤では聴くことを躊躇したイギー・ポップの「ラスト・フォー・ライフ」に合わせて、ひとり踊り出すのだった。「この場所」で、ひとり踊り続けることの意味とは何なのか。つまりは、訳知り顔で、「時間の残酷さ」を嘆いてみたところで、事態は何も変わらないということだ。そもそも、過去は言うほど甘美じゃないし、ノスタルジーに生きるには、まだまだ活力がある。そう、それでも人生は続いていくのだ。であれば、この場所で踊り続けるしかない。それは、小ぢんまりとしてなおかつダイナミックな、とても感動的なシーンだった。
そう、監督や役者はもちろん、観る側もきっちり20年歳を取っているという事態が、この映画に奇妙なグルーヴを与えているのは、どうやら間違いのないことのようだ。というのも、作り手も観客も、20年という歳月の持つ意味を、その「真実」を知っているから。そして、そこからまた、さらに人生が続いていくことも。周知の通り、1999年、ひとまず世界は終わらなかった。無論、その状況は、ますますタフなものとなっているような気がするけれど。