立川シネマシティ・遠山武志の“娯楽の設計”第8回
邦画“日本語字幕つき上映”のメリットと課題ーー『シン・ゴジラ』『君の名は。』の実績から考える
これは、久しぶりにヘコみました。その直前に『シン・ゴジラ』の字幕つき上映を評判に出来たので、慢心があったのだと思います。そしてもう10年以上も、上映できる作品で日本語字幕つきが作られている映画はほぼすべて上映してきたということもあって、慣れてしまっていて、以前のように案内や理解を求めるチラシを積極的に置いたりなどの活動を怠っていました。
日本語に日本語字幕がついていることを、わざわざ劇場に来ているにも関わらず、それでも観ないことを選ぶほどイヤがる方がそれほどたくさんいるとは思っていませんでした。テレビでは、すべてではなくても、話していることにやたら字幕がつくのはもう10年以上も前から当たり前のように行われていますし、ゲームならほとんどすべての台詞に字幕がつくのが常識と言っていいくらいです。電車の中で流れるCMは全部これです。だからこれはきっと、どんなものなのかわからない、ということが原因なのです。周知が全然できていないことが悪いのです。
今回のことを受けても、シネマシティがスタンスを変える予定はありません。なぜなら、シネマシティは“映画ファンのための映画館”であり、カンタンなことでより多くの映画ファンが楽しめるならそちらを選択するべきと考えます。また、オープンの時から“音にこだわる映画館”なので、上映を続けることがブランド力を維持することになります。聴覚障がいの方にとって字幕は“音”だと考えるからです。
字幕つきは、実際観てみれば、さほど違和感はないし、それどころか、作品理解がより深まることすらあります。なぜならば日本語は“文字”に大変重きがある言語だからです。同じ“きく”でも、“聞く”“聴く”“訊く”では、ニュアンスが変わります。“見る”“観る”“視る”“看る”で、行為の意味が変わります。“思う”と“想う”では、感情にゆらぎがあります。
クリエイター、俳優の方は、もしかしたら表現上の問題で、嫌がるかも知れません。なぜならば、字幕がある、ということ自体、作品世界と観客の間に一枚のヴェールがあるということになるからです。わかりやすく極端な例を挙げればデレク・ジャーマンという監督が作った『BLUE ブルー』という映画。
これはただ真っ青な画面、ただそれだけが70分間映され続け、監督自身が話し続けるという作品です。上映される劇場全体を青に染めて独特な空間を作り出す今作に、英語で話されるからと白色の字幕をつけることは、作品の本質を変容させてしまいます。ここまで極端ではなくても、本当は同様のことがすべての作品で起こっています。
また、とりわけ台詞での“笑い”は、音として聞く前に文字で見えてしまうということから、大きく削がれる可能性があるでしょう。でもこれは字幕を出すタイミングをきちんとすれば、テレビのバラエティのように返って笑わせられる可能性もないわけではありません。
俳優の方は、“聞く”“聴く”“訊く”のニュアンスの違いを声質や表情、素振りで表現してこそ“演技”だとおっしゃるかも知れません。だから過剰表現になるのだと。その通りだと思います。
字幕つき上映は、健聴者にとってはメリットもデメリットもあります。それは作品によっても程度が異なるでしょう。しかしそういう「健聴者の理屈」は排除して考えなければいけません。この作品は向いているから字幕をつける、向いてないからつけない、という時、字幕つき上映の本質が失われています。聴覚障がいの方にとってはメリットしかないはずです。