宮台真司の月刊映画時評 第7回(後編)
宮台真司の『シリア・モナムール』評:本作が『ヒロシマ・モナムール』の水準に留まる事実への苦言
<神経症モデル>から<精神病モデル>へのシフトを支援せよ
僕が過去に何度も述べてきたことを再確認します。言語の獲得(4万年前)が定住化(1万年前)を可能にしましたが、定住社会の大規模化が文字言語を要求し(3千年前)、文字言語が大規模定住社会化を可能にしました。ところが文字言語は、言語使用を文脈から切離するので動機づけに問題を抱えやすく、それが今日の晩期近代社会に於ける数多の困難の背後にあります。
特殊な歴史的文脈に支えられて初めて、大規模定住社会に於ける「見ず知らずの人々」を「仲間」だと「感じ」られます。連載では、アリストテレスの時代に既にそのことが気付かれていた事実をト・アリストン(最高善)の概念を元に説明しました。そうした歴史的文脈は特殊なのでどのみち持続可能性はありません。「見ず知らずの仲間」にマジガチで依存する作法は放棄されるべきです。
『シリア・モナムール』は、『二重生活』同様、社会も人格も、テクノロジーの産物が突き付ける<関係の偶発性>に身を晒した途端にリアリティが失われる程度の、「書割(社会)」と「影絵(人格)」にすぎないのに、その程度の営みが数多の悲惨を生み出す滑稽を描きます。テクノロジーがファンタズム(書割と影絵)を可能にした歴史もありますが、今日では完全に逆向きです。
テクノロジーは様々な局面で越境を可能にします。そのことがトライバルな集住を超えた大規模定住に必要なファンタズムをもたらしました。そのテクノロジーが大規模定住を支えるファンタズムを壊しつつあります。しかし[①主権国家、②資本主義、③民主政]のトリレンマを克服できるようなファンタズムを新たにもたらす可能性は未だに全く見えません。
むしろファンタズムの崩壊がもたらす未規定性が、フロイト的な補償(埋合せ)として、イスラム国やウヨ豚に見るような、極端に滑稽なファンタズムを呼び寄せます。ラカン派の言う<神経症モデル>です。しかし今述べた如く、テクノロジーの発達がもたらす未規定性が、ファンタズムを生きられない人々を量産しますーー<神経症モデル>から<精神病モデル>へ。
繰返すと、家族から国家に到るまでの全てが、言語的に構成された社会を支える言語的なファンタズムに過ぎない事実に、気付いた者たちが直面する渾沌と、再出発ーー。『シリア・モナムール』と『二重生活』に共通するモチーフです。ファンタズムなき後の大規模定住社会は<なりすまし>なしに回りません。その事実の自覚から全てを建て直す他ありません。
制作者が自覚するか否かに関係なく、この映画は「何が悲惨さをもたらしているのか(答え=ファンタズム)」「そのことに気付かせてくれるものは何か(答え=テクノロジー)」をモチーフにしています。制作者の意図と無関係に「社会よりもテクノロジーに適応することによって、社会が<なりすまし>のゲームに過ぎない事実に気づけ」と促している、とは、そういうこと。
「制作者が自覚するか否かに関係なく」と申し上げたのは、「見ず知らずの仲間」への<愛>という新しいファンタズムのために命を落とすことを奨励しているように受け取られる可能性を、映画自身が防遏していないからです。ショボい「書割」の中の薄ぼけた「影絵」どものゲームの「中で」、何かを崇高だと思い込むことは、ソレが何であれ滑稽な茶番に過ぎません。
ショボい「書割」の中の薄ぼけた「影絵」どものゲームを、マジガチで自明に生きられる存在は、ラカンの言うように妄想性障害(パラノイア)を患っています。彼に従えば、フランスが存在するとか、日本が存在するとか、本当に存在するならここに出して見せてみろよ、という話になります。これらは所詮「皆が“存在する”と言っている」という域を少しも超えないファンタズムです。
とはいえ、これまた連載で繰返しましたが、M・アントニオーニ監督『欲望』(1966年)のラストに於ける集団パントマイムのシーンが示すように、ファンタズムに過ぎないものが実際に存在するかの如く<なりすまして>生きること抜きには、親しき仲間も家族も守れず、我々が知る喜怒哀楽の感情劇も享受不能になる。でもそれでいい。それしかないのだから。
我々は三文小説の茶番を生きるーーその自覚が全ての出発点であるべきです。但しこの出発点は「何でもあり」のニヒリズムを分泌し得ます。だから、三文小説の茶番がそれでもそれなりに持続的に成り立つ奇蹟ーーありそうもなさーーに感情的に開かれる必要があります。その開かれをもたらすことが、映画という表現の役目であってもいいと思います。
この役目に照らせば、『シリア・モナムール』より『二重生活』が表現の質が上です。『二重生活』に於ける尾行の享楽が、『シリア・モナムール』に於ける戦闘の日常に比べ、「呑気」な戯れに見えたとしてもーー否、「呑気」なものに見えればこそーー『二重生活』が上です。『シリア・モナムール』の弱点は、制作者が映画が孕むモチーフを充分理解していないことです。
この無自覚は、『ヒロシマ・モナムール』(1959年/アラン・レネ監督/邦題『二十四時間の情事』)のように<国境を乗り越える愛しみ>が可能だ云々といった具合に、所詮は「書割」の中の「影絵」のゲームの枠内に映画的想像力が縛りつけられる可能性を準備します。その意味で、本作は潜在的可能性において特筆すべきですが、表現型に注目する限りでは70点です。
映画の後半は、子どもが「蝶よ花よ」と戯れるが如きシーンが頻出します。これは観客に対する媚びだと言えます。観客たちの日常の枠内にある「蝶よ花よ」の快楽に照らすことで、遠く離れたシリアの現場を観客たちの近くに引き寄せた上、その快楽に照らして悲惨を印象づけることでコミットさせる戦略です。残酷だ、何とかしなければーーそういう話でいいか。
連載でも繰返して来たように、そもそも<性愛>と<社会>は両立しない。ならば性愛が国境を超えるのは当たり前。より一般的に、吉本隆明『共同幻想論』を引いて言えば、対幻想と共同幻想とは、突き詰めた部分では両立しない。それは共同幻想が言語的プログラムに圧倒的に多くを負うからです。「~は国境を越える」とする発想は、所詮は概念的思考が弱いのです。
ちなみに、日本を筆頭とする先進各国(?)の現状は、もっと嘆かわしいものです。そこでは、「愛は国境を超える」=「<性愛>と<社会>は両立しない」という共通感覚すら失われつつあります。<性愛>を含む対人関係の営みが、<社会>と両立できる範囲内での損得勘定のゲームへと、神経症的に縛り付けられるようになりました。<精神病モデル>化に抗うバックラッシュです。
<性愛>と<社会>の両立不可能性を出発点に、<社会>ーー大規模定住社会ーーの不可能性と、それを「しのぐ」ための<なりすまし>の必要性への自覚に到るには、かかるバックラッシュに映画が加担してしまう可能性を、倫理的に防遏しなければなりません。しかし映画の多くはこうしたバックラッシュに巻き込まれざるを得ないので、批評的言説による介入が必要なのです。
■宮台真司
社会学者。首都大学東京教授。近著に『14歳からの社会学』(世界文化社)、『私たちはどこから来て、どこへ行くのか』(幻冬舎)など。Twitter
■公開情報
『シリア・モナムール』
シアター・イメージフォーラムほかにて公開中
監督:オサーマ・モハンメド、ウィアーム・シマブ・ベデルカーン
配給:テレザとサニー
(c)2014-LES FILMS D'ICI-PROACTION FILM
公式サイト:http://www.syria-movie.com/