『山河ノスタルジア』半野喜弘が語る、映画音楽の哲学「監督や役者がリアリティを追求する中で、僕は嘘みたいな音楽を付ける」
音楽家・半野喜弘が音楽を手掛けた映画『山河ノスタルジア』が全国公開中だ。『罪の手ざわり』を手がける中国の新鋭、ジャ・ジャンクーが監督を務めた本作は、1999年、2014年、2025年の3つの時代を舞台に、母と子の愛を描いていく壮大な物語。1月に公開された行定勲監督作『ピンクとグレー』の音楽を担当している半野だが、現在は自身初監督作『雨にゆれる女』を制作するなど、音楽家としての活動以外も精力的に行っている。ジャ・ジャンクーと共作するのは『プラットホーム』『四川のうた』に続き3作目となる半野喜弘に、監督との制作舞台裏から、映画と音楽の密接な関係性、自身の映画哲学についてまで、深く語ってもらった。
「映画そのものが持つ温度を意識」
ーー今回が3度目の共作ですが、半野さんから見て、ジャ・ジャンクー監督はどんな人物ですか?
半野喜弘(以下、半野):ジャ・ジャンクーは人の心を掴むのがうまい。今回のラストも、そりゃグッときますよね。エンディングは当初違うものを予定していたらしいですが、撮影中に思いついて変更したようです。日々の撮影をこなしながらも、より良いアイデアを思いつくのは才能と言えるんじゃないかな。いつもニコニコしているように見えますが、現場ではめちゃくちゃ怖いです。エキストラの髪型が気に入らないと言い出して撮影を取り止めたり、役者を叱っていることもありました。なんでできないんだ! って(笑)。
ーー熱い人のようですね。では、今回のお話を受けた経緯を教えてください。
半野:過去の経験から彼が才能ある監督だということは十分理解していたので、一緒に作ろうと誘われたら頷くだけでした。経緯としては、たしか『罪の手ざわり』で監督が来日していた時、ちょっと打ち合わせたいからと声をかけていただいて、そこで今回の話を聞いたのが始まりですね。その時点で、すでに三部構成になるということは決まっていて、あとは作品の大まかな流れを口頭で説明されました。
ーー作曲を開始したころはどの段階まで映像は仕上がっていましたか?
半野:全体の三分の一くらいだったと思います。1999年のパートと2014年のパートの前半があったくらい。2025年のパートは脚本から感じたイメージを基に作って、最終的には出来上がった映像にあわせて少し調整したくらいです。
ーー少ないヒントの中から作られたのですね。本作も含め、映画音楽を制作する際はどんなところから着想を得ているのか教えて下さい。
半野:それに関しては人それぞれやり方があると思うけど、僕の場合は題材になる映画の断片からその作品のリズムやトーンを掴んでいきます。カット割りとかの話ではなくて、カメラや出演者の動き、セリフが配置されている間隔とか、映画のリズムがわかれば大まかに楽曲のリズムも決めていける。抽象的にはなりますが、雰囲気や質感、映画そのものが持つ温度を意識するようにしています。
ーー音楽に使うキーやメロディも同じように決めていくのでしょうか?
半野:そうですね。映画の温度が分かれば自然にキーも決まってくるし、使える響きもわかってくる。ただし、メロディは映画の本質的な部分や意味に直結するところなので、最初の時点で決めることは少ないです。最初は、映画全体を通して使用するひとつの和音を決めていきます。今回の場合は、時間軸が長いということもあって、ある種の歴史を感じさせる音の重みが必要になると思いました。和声学的に考えた時の音の重さですね。そこに意識を向けつつ、本作が持っている人間の痛みだったり、悲しさを表現できる和声を決めていきました。
ーー挿入歌としてペット・ショップ・ボーイズの『GO WEST』が冒頭で使用されていますが、このことは事前に聞いていましたか? また、挿入歌が映画音楽に影響を与えることはありますか?
半野:当時の時代を象徴する曲として使うことは最初から聞いていました。けど、挿入歌が映画音楽に影響することはほぼないですね。ただ、サリー・イップの「珍重」(挿入歌)は、僕の曲とも近いところがあったので、うまく雰囲気が繋がればいいと監督は話していました。
ーーほかに監督から受けた要望や、制作時のエピソードがあれば教えて下さい。
半野:監督は注文が抽象的なんです。ものすごく抽象的(笑)。この映画と同じ一曲を作ってください、ジャ・ジャンクーのオーダーはいつもこんな感じです。役者は演じるべきものをすべて演じた、風景も含めて撮るべきものは全部撮影した、僕らはやるべきことをすべてやった、ここに足りないものがあるとすれば、それは僕たちが映すことのできない人間の内面のため息なんだ。だからそれを音楽にしてください、というのが監督から受けた言葉です。
ーー作る側にとっては、かなり難易度の高い注文だと思います。
半野:そうですね、監督と仕事をする時は毎回すごく悩むんですよ。ただ、監督の場合は曲の種類をあまり使わないので、メインテーマがひとつ決まれば、あとはその曲のバリエーションで全体を構成していきます。一見、曲が少ないと作業も少なくてラクなイメージを持つかもしれませんが、実際のところ映画全部を表現した1曲を作るほうが苦労します。選ばれるのはたった一曲ですが、その過程で何十曲も作っていくわけですから。
「オーソドックスな形で成功を収めることが一番高度な技術を要する」
ーー日本映画では、行定勲監督作『ピンクとグレー』の音楽も手がけています。日本と中国映画でなにか違いを感じますか?
半野:僕の経験上、日本映画の場合は、割とシステマティックに音楽が決まっていく印象があります。おそらくジャ・ジャンクーとホウ・シャオシェンのやり方が特殊なんだと思いますが、日本とはだいぶ違いますね。日本だと、全体の尺がまず準備されていて、オープニングに何分何秒の曲が欲しいと要望を受ける。それに、M番(ミュージック番号)が割り振られていって全体の配置が決まっていく。ジャ・ジャンクーの場合は、映像を編集する前に音楽を渡して、監督があっちこっちに音楽をくっつけていく感じです。ここに決め打ちっていうのがない。なんとなくこんなニュアンスでと注文を受けることが多いです。
ーー本作は1999年、2014年、2025年の3編で構成されています。ベースになっている楽曲は同じですが、使用している楽器やアレンジによってそれぞれに違いを生み出していましたね。
半野:3部構成っていうのはもともと決まっていて、99年はシンプルに、悲しみが増していく14年は音にダイナミズムを持たせたい、そして最後はシンプルに戻りたい、という監督の構想がありました。99年の彼らの生き様にはアコースティックギターが合っていると思ったし、逆に25年は未来的な要素としてエレクトロニクスを入れている。ひとつの音楽が形を変えて出てきたり、時を経て同じ曲が再び現れたり、それが映画自体のテーマにも合致していると思います。
ーー半野さんは『プラットホーム』『四川のうた』にも関わっていますが、その頃と比べて、監督の変化はなにかありましたか?
半野:『罪の手ざわり』から監督は変わってきていて、いままでとはまったく別のことをしようとしている印象を受けました。今よりも映画が映画らしく存在していた時代の、より普遍的な作品を作ろうとしているんじゃないかって。今回の作品も過去作品と比べるとかなりドラマチックになっていると感じました。演出面の細かいところで言えば、役者に芝居をさせることにこだわっていたな、と。いままではあえて芝居をさせない演出をすることが多かったし、初期から中期にかけてはドキュメンタリーと創作の境界を意識している印象が強かった。カメラワークにしても、客観性を強く押し出したどこか冷徹な映し方をしていたのに対し、今回は役者の芝居にあわせていくある種の感情を持ったカメラの使い方をしていたと思います。
ーーなるほど。
半野:音楽にも言えることですが、オーソドックスな形で成功を収めることが、一番高度な技術を要すると思います。そういう意味では、いままでと違うステージで勝負しようとしてるんじゃないかなって。作家性を重視した映画、例えばヌーベルバーグが高く評価されたのは、普遍性を持った名作があったからであって、それ単体では評価のしようがない。なにかの意味合いや価値は相対的に決まっていくものです。インディペンデントな作品を作り続けるのではなく、その源流にあるもっと大きなものを作ろうとしているのではないか、と僕は解釈しています。あるカテゴリの中の巨匠ではなく、映画そのものの巨匠になろうとしているんじゃないかと。