テレビマンたちはナチス戦犯・アイヒマンをどう描いたか? 『アイヒマン・ショー』をめぐる考察
「世界最大の悪はごく平凡な人間が行う悪です。そんな人には動機もなく、信念も邪心も悪魔的な意図もない。人間であることを拒絶した者なのです。そして、この現象を私は“悪の凡庸さ”と名づけました」。映画のなかで彼女はこう演説する。しかし、「我々もまたアイヒマンになり得る」とするこの考察は、アイヒマン、ひいてはナチス・ドイツを擁護するものと受け取られ、彼女は主に自らの同胞であるユダヤ人たちから猛反発をくらうのだった。「理解」と「許し」は別であるとしたにもかかわらず。
そして、もうひとつは、昨年日本公開された『顔のないヒトラーたち』だ。1958年の西ドイツ(当時)、フランクフルトから物語が始まるこの映画が描き出すのは、当時アウシュヴィッツについてはもちろん、ホロコーストの実態について、ほとんど知ることのなかった西ドイツ(当時)国民の姿だった。あるジャーナリストの告発に端を発し、その後検察官たちの尽力によって、ホロコーストに関与したナチスの協力者たちをいっせいに裁判にかけるという事態……ドイツの戦後史において重要な事件のひとつとされる1963年の「フランクフルト・アウシュヴィッツ裁判」へと至る経緯を、ドイツ国民のアイデンティティの揺らぎや葛藤ともども、ありありと描き出した本作。そこまでもまた、1961年の「アイヒマン裁判」は、とりわけ重要な意味を持っていた。というのも、劇中でも描き出されているように、アイヒマンがブエノスアイレスに潜伏しているという秘密情報をモサドに流したのは、「フランクフルト・アウシュヴィッツ裁判」で中心的な役割を担っていたフリッツ・バウアー検事総長、その人なのだから(戦後長らく国際社会の監視下にあった西ドイツには、外国での作戦行動など不可能だった)。アイヒマンを自国で捕えて裁くことができなかったことへの遺恨。「アイヒマン裁判」が終結し、その判決通りアイヒマンがイスラエルで死刑に処された翌年の1963年から「フランクフルト・アウシュヴィッツ裁判」が始まったのは、決して偶然ではないのだ。
当時最先端のメディアであった「テレビ」の持つ力を世に示すため、あるいは自らの「信念」によって「アイヒマン裁判」を映像化しようと試みたテレビマンたち。その裁判から、「悪の凡庸さ」と「思考することの重要性」を見出したユダヤ人哲学者と彼女への反発。そして、その裁判を自国で行うことのできなかった自責の念から、歴史的な一歩を踏み出した検察官たち。現在、第二次世界大戦における最大の悲劇として、広く世に知られていることはもちろん、さまざまなアプローチによって何度も繰り返し映画化されている「ホロコースト」ではあるけれど、その端緒のひとつに「アイヒマン裁判」があり、それがさまざまな場所や人々、そして国々に大きな影響を与えていたという事実は、決して忘れてはならない観点のひとつと言えるだろう。すべての映像=映画は、主観によって生み出される。しかしながら、それらを手繰り寄せることによって、なるべく客観へと近づこうとすること。アーレントの言う「思考の重要性」とは、すなわちそのことを指すのだから。
■麦倉正樹
ライター/インタビュアー/編集者。「CUT」、「ROCKIN’ON JAPAN」誌の編集を経てフリーランス。映画、音楽、その他諸々について、あちらこちらに書いてます。
■公開情報
『アイヒマン・ショー 歴史を映した男たち』
2016年4月23日より公開
監督:ポール・アンドリュー・ウィリアムズ
製作:ローレンス・ボーウェン、ケン・マーシャル
製作総指揮:フィリップ・クラーク、カースティ・ベル
キャスト:マーティン・フリーマン、ほか
製作国:イギリス
配給:ポニーキャニオン