『俳優 亀岡拓次』が映し出す脇役の美学 女優・大塚シノブが観たその奥深さ
魅力的な要素がありすぎる作品である。まず原作者は芥川賞候補に5度選ばれた小説家で、劇作家でもある戌井昭人。以前、情熱大陸でも取り上げられていた人物だ。文学座研究生を経て、自ら劇団を立ち上げ、役者としても活動している。私はその経緯と自然体な人物像に一気に興味を奪われ、番組放送後の翌日、すぐに小説『まずいスープ』を購入したほどだった。
今回は『のろい男 俳優・亀岡拓次』が原作となっているのだが、なんとなく、番組で見た戌井氏の力の抜けた飄々とした感じが、今回の映画の主人公である亀岡拓次と重なるように見えた。さすが原作者自身が役者ということもあり、撮影の舞台裏や俳優という職業において、リアリティーや哲学を持って描かれている作品である。俳優といえば主役にスポットライトが当たるのが常だが、そこに脇役俳優を持ってくるところもツボだ。(ここからは敬意をもって、敢えて脇役と呼ばせて頂く)
私は主役よりも脇役の俳優に興味を持つことが多い。実際、脇役を多く演じている俳優には演技達者な人が多い。もちろん主役は主役の難しさもあるのだが、主役はそこにいればカメラは自分を追ってくれるし、もちろん他者との兼ね合いはあれど、まず自分ありきで見られている。それに対して脇役は相手を際立たせながら、自分の役にも輝きを持たせなければならない。主役とはまた気を使う場所が違うし、主役以上に気を遣う部分もあり、その絶妙なさじ加減が、職人芸のように感じられるからだ。何気なくやっているように見えるけれど、実は演技は奥が深く難しい。出番が少なければ少ないほど、そこで存在感を出していかなければならない難しさもある。だからこそ、少ないシーンで存在感をバシッと出している俳優を見ると、逆にリスペクトしてしまう。
自分自身、脇役も主役も演じたことがあるのだが、主役を演じた時、自分に余裕がなくてもそれなりに立てているのは、周りの役者の演技やそれによって生まれた空気のおかげだと感じ、脇を固めてくれている俳優陣に対し、尊敬の念が増した。土台がしっかりしていない家に、しっかりした家は建たない。つまり脇役あっての主役であるということである。
その点、主人公の亀岡拓次は脇役の中の脇役、もうそれを通り越して神である。たまに失敗もするが、神である。スイッチがオンになる瞬間は役を演じる時だけ。それ以外は、地味で不器用で飄々としている。生活にさえ脇役臭が漂う。でもなぜか、地球は回っていても、彼だけはずっと変わらないのでは?と思わせるほどの、安定感を保っている。ほとんどの俳優は自己顕示欲や、強烈な個性と共に生きているように私には見える。ただこの男にはそれが全く感じられない。面白くないようで面白い、没個性。それも脇役俳優、亀岡拓次の魅力だと思う。もちろん実在の人物ではないのだけれど。