96歳・現役作家の筆致に圧倒されたーー皆川博子の最新長篇『ジンタルス RED AMBER』の充実ぶり

 圧倒された、の一語に尽きる小説だった。皆川博子の最新長篇『ジンタルス RED AMBER』(河出書房新社)のことである。圧倒されたというのは、ひとつは著者の年齢を感じさせない筆致について。もうひとつは、物語としての充実ぶりについてである。

『皆川博子コレクション5 海と十字架』(出版芸術社)

 皆川博子は現在96歳、1972年に『海と十字架』でデビューしてから54年目を迎えるが、その年齢で約470ページの大作を完成させる気力・体力を保っているだけで尋常ではないのに、数多い登場人物を精彩豊かに描き分け、過去の異国の出来事を実際に眺めているかのように読者に錯覚させるほど臨場感たっぷりに浮かび上がらせる筆致は端正にして強靱そのもの。予備知識なしに本書を読んで、90代の作家が書いたものだと推測できる読者はまずいないだろう。

 『ジンタルス RED AMBER』は、紫式部文学賞を受賞した歴史小説『風配図 WIND ROSE』(2023年、河出書房新社)と舞台が重なるところはあるが、続篇ではないのでこちらから先に読んでも全く問題はない。冒頭は、ミーシャという青年が自作の小説『秘密法廷』を批評家から酷評されるシーンで始まる。読み進めるうちに次第にわかってくるが、ミーシャが生きているのは19世紀の帝政ロシア。欧州諸国が革命などを経て新しい体制のありようを模索している中、北の大国ロシアは未だに農奴制を敷いていた。ミーシャはその農奴の出である。領主のブロヒン伯爵の屋敷に出仕し、貴族の使用人として一生を終える可能性が高かった彼だが、二人の人物との出会いが彼の運命を変える。

『風配図 WIND ROSE』(河出書房新社)

 一人は伯爵に仕える農奴画家のメーリニク。既に老境に達している彼は、ミーシャの画才を認め、自分の技術を彼に伝授する。もう一人は伯爵家に住む若者ステンカ。「亡霊」と呼ばれている彼は、先代伯爵がどこの誰かもわからない女性に産ませた子であり、貴族でも使用人でもない曖昧な立場に置かれている。誰も訪れない図書室に住み着いている彼はミーシャに書物の楽しさを教え、やがて二人は親友となる。

 巻末の謝辞にはウクライナの詩人・画家タラス・シェフチェンコの名が挙げられているが、文才と画才を兼備したミーシャは、部分的にシェフチェンコをモデルにしたキャラクターなのではないか。だが、いろいろな苦渋はありながらも農奴としては恵まれているように見えるミーシャの人生は、ある出来事がきっかけで暗転する——シェフチェンコの人生がそうであったように。当時も現在も、自由な表現が許されず、芸術家が体制に従うことでしか生きられない国は存在する。実際、ミーシャとほぼ同時代を生きたロシアの文学者には、ドストエフスキーのようにシベリアへの流刑に処せられた者、プーシキンやレールモントフのように非業の最期を遂げた者がいる。

 ミーシャの物語と並行して、彼が執筆した小説『秘密法廷』が作中作として挿入される。そちらの時代背景は13世紀。主人公のジンタルス(琥珀という意味)は、リヴォニアの族長の息子だったが、12歳の時、十字軍の一組織「刀剣騎士修道会」に家族を殺され、修道院に入れられる。だが、マクシミリアンという同い年の貴族の子息と出会ったことがジンタルスの運命を変える。修道士になる予定だったのに、兄の死によって騎士の道を歩むことになったマクシミリアン。ジンタルスはその従者となることで修道院を出る。故郷を侵略し、家族を惨殺した刀剣騎士修道会への復讐を胸に誓いながら——。

 この作中作パートは、とにかく戦乱、戦乱、また戦乱の連続である。神の名を掲げる者たちによる略奪、強姦、そして虐殺。あとから思えば、序盤にジンタルスが味わう窮屈極まりない修道院生活が一番平和に見えてしまうくらいだ。ジンタルスは復讐を成し遂げるまではキリスト教徒になりすますつもりでいるが、それは彼のアイデンティティを揺るがさずにはおかない。キリスト教徒とともに行動し、キリスト教徒とともに敵(異教徒)と戦う……それは何のための戦いなのか。

 身分格差によって生まれつき自由を奪われていたミーシャと、殺し合いの中で人間性をすり減らしてゆくジンタルス。現実に圧政と戦乱が世界を覆い尽くしているこの2020年代、彼らの生き方は多くの読者の心を動かす筈だ。

『昨日の肉は今日の豆』(河出書房新社)

 昨年(2025年)には、著者の最新短篇集『昨日の肉は今日の豆』が、同じ河出書房新社から出ている。編者は皆川博子研究の第一人者・日下三蔵で、2010年代以降の単行本未収録作を中心に、詩や俳句なども収録している。ダイナミックな展開の長篇『ジンタルス RED AMBER』とは対蹠的に、著者ならではの言語魔術が自在に駆使された、精巧で静謐な作品が並んでいるが、個人的には、雨の代わりに錆が当たり前のように降りしきる世界(錆が降る以外は現実と変わらない)が舞台の「椿と」が、唐突に断ち切るような衝撃のラストも含めて最も印象的だった。なお、巻末の書き下ろし作品「ソーニャ 序曲」は、『ジンタルス RED AMBER』の冒頭に出番は短いながらも印象的なキャラクターとして登場していた女優ソーニャを主人公とするスピンオフ短篇である。

『皆川博子の辺境薔薇館 増補版』(河出書房新社)

 そんな皆川博子ワールドの全体像を知りたい方には、『皆川博子の辺境薔薇館 増補版』(河出書房新社)がお薦めだ。2018年に刊行された『皆川博子の辺境薔薇館』の増補版だが、2026年時点での著者インタヴューや新たな論考などが追加され、前にもまして読み応えのある一冊となっている。著者のディープなファンのみならず、これから入門したいという読者にとっても必携だろう。インタヴューによると、著者は現在、16世紀イタリアの画家カラヴァッジョをモデルにした小説を執筆中とのこと。著者がこれからも長寿に恵まれ、新たな物語を紡ぎだしてくれることを期待せずにはいられない。

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