小説家は「自分の価値観」を捨てるべき? 小川哲、村田沙耶香、三宅香帆……それぞれの創作論を読む
小川哲『言語化するための小説思考』の売れ行きが、好調らしい。小説をどう書くかという内容だ。
小説の創作術に関する本は、多く出ている。最近では、高野和明『乱歩賞作家の創作術』が取材や資料集めのやり方に触れていたし、中山七里『超合理的! ミステリーの書き方』がプロットの立て方やテーマ、ストーリー、キャラクター、トリックの作り方を語っていた。中村航『これさえ知っておけば、小説は簡単に書けます。』は、小説の書き出し方、書き進め方、終わらせ方を示していた。
しかし、『言語化するための小説思考』は、その種のHow to 本とは少し違う。この本にも、小説を書く時には情報の出し方の順番が大切だといった教えはある。視点人物が持っている情報量と読者の情報量の差を最小化すると読みやすくなる、エンタメ・ジャンルの文章はその戦略で書かれていることが多い、といった作家志望者に有益そうな解説も少なくない。ただ、本書は創作術よりも、小説とはなにかを考えることがテーマになっている。新書サイズで「言語化するための」と題されているからHow to 本のようにみえるが、もともとは純文学雑誌『群像』に連載された「小説を探しにいく」を書籍化したものなのだ(最後に短編小説も収録している)。
小川は本のまえがきで、小説に限らず文章は「他者」のため、「作品」のために書かれるべきであり、「文章は「自己表現」であると同時に、「その自己表現に他者がどれだけ感心したか」という側面を持つ」としている。本文のなかでは、小説を探究するためには「自分の価値観」を捨てなければならないとも説く。それは、「小説家の仕事の一つは、偏見から読者を解放することでもある」と語る小川が、そのためには「自分の価値観」に縛られてはいけないと考えるからでもあるだろう。
彼が、一般的にエンタメに分類されるSFの出身であることも背景にあるだろうが、本書は「小説はコミュニケーションである」と強調する。だが、他者に伝わることを重視するこの姿勢には反発するむきもある。小川は「文章は「自己表現」である」という前提を踏まえたうえで書き始めているのだが、本文中で示される他者の重視を、他者に左右されることだ、「自己の価値観」を貫くべきだと思う人もいるようだ。
最近、Waterstones(イギリスの大手書店)が公開したインタビューで村田沙耶香は「私はたぶん無意識の地下室みたいな場所を使って小説を書くタイプの作家だ」と話していた。
自分のなかにあるなにかを小説にするというこの発言は、純文学作家に対する一般的なイメージに沿うものではないだろうか。ここだけを聞くと自己表現そのもののように思える。でも、Waterstonesのインタビューで村田は「その地下室は私だけの地下室ではなくて、どんどん潜れば人類みんなにつながるようなすごく深い部屋だと思っている」と続けていた。彼女は『文藝』2024年冬季号で対談相手の待川匙の文藝賞受賞作『光のそこで白く眠る』について「この作品は、すべての人間の秘密につながる謎の箱に接続していて、ものすごく広い「魂の地下室」に眠っている言葉を取り出してつくられているよう」と評していた。村田は、地下室のイメージで世界を、小説を把握しているわけだ。その地下室は、自分だけでなく人類=他者につながっている。
一方、『言語化するための小説思考』で小川は、小説を書く時に「抽象化をして、個別化をする」と述べていた。これは、自身の地下室(個別化)が人類の地下室(抽象化)に通じているという村田の創作と重なるところがあるように思う。小川は論理で考え、村田は感覚でとらえている違いはあるが、二人の姿勢が相容れないわけではない。
『言語化するための小説思考』の刊行にあわせ、『群像』12月号で小川哲と文芸評論家の三宅香帆の対談が掲載された(Youtubeに動画がアップされている)『「好き」を言語化する技術』、『考察する若者たち』という著書のある三宅と小川の間で、最近の流行語である「言語化」、「考察」についても話題になっている。三宅は、小説などの感想について「正解の見方」があると感じる人が増え、それを言葉にしてほしい欲望が「言語化」、「考察」と結びついていると話す。「でも、小説は、「これが正解です」というコミュニケーションを描いているわけではありませんよね」という三宅に対し、小川は「その波は今、フィクションに来ているように思います」と述べる。
興味深いのは、三宅も小川もビジネスにおける言葉を執筆の視野に入れていることだ。三宅は『いま批評は存在できるのか』で、批評について90年代はアカデミック、ゼロ年代はオタク、10年代はマイノリティ当事者が観客だったが、20年代はビジネスマンが批評の観客になると発言していた。
一方、小川は『言語化するための小説思考』のまえがきで、この種の本はより多くの読者を得るため、話をビジネスの場面に置き換えた例を出したりするものだが、本書では可能な限りそれを避けたと記していた。だが、日経BOOK PLUSのインタビューで、読者がなにを受けとったかで小説の価値が決まると持論を語る小川に対し、インタビュアーが「ビジネスパーソンが企画書や報告書、提案書など文章を作る時も同じですね」と問うと、「全く同じだと思います」と応じている。(参考:日経BOOK PLUS/小川哲 自分のための文章はいらない、小説思考で上げる仕事の解像度)
小川と三宅は、正解や効率が求められるビジネスの場面のような感覚や欲望が、批評や小説をもとり巻くようになったことに自覚的な書き手である点が、共通している。彼らは、それをよいことだと受けとっているわけではないが、書くうえでの前提条件だととらえているはずだ。
面白いのは、『言語化するための小説思考』において、小説で最初に考えるべきことは「主張」や「設定」ではなく、「書いてみたいこと」、「考えてみたいこと」であり、大事なのは「答え」ではなく「問い」だと控え目に書いていることだ。小川はこの部分について、「僕の主観」であり「答え」ではないと注釈をつけている。だが、「言語化」や「考察」と結びついた、短絡した「正解」に対する小川たちの議論を読むと、むしろ「問い」への着目が『言語化するための小説思考』の肝なのではないかと思えてくる。
そういえば、村田沙耶香は、『ダ・ヴィンチ』4月号のインタビューで「小説を書くという実験を通して、人間や世界について“あぁ、こうだったんだ”と、それまで知らなかったことや想像もしていなかったことを発見したいんです」と語っていた。彼女も、人間や世界のなにかを発見するための「問い」に動かされているのだ。
「正解」を求める欲望が高まるなかで「問い」をいかに見つけるかが、重要になっている。他者に伝わらなければならないが、小説は「これが正解です」というものではない。「正解」と「問い」にまたがったアクロバットをしていかなければならないのだろう。