連載:道玄坂上ミステリ監視塔 書評家たちが選ぶ、2025年8月のベスト国内ミステリ小説

 今のミステリー界は幹線道路沿いのメガ・ドンキ並みになんでもあり。そこで最先端の情報を提供するためのレビューを毎月ご用意しました。

 事前打ち合わせなし、前月に出た新刊(奥付準拠)を一人一冊ずつ挙げて書評するという方式はあの「七福神の今月の一冊」(翻訳ミステリー大賞シンジケート)と一緒。原稿の掲載が到着順というのも同じです。今回は八月刊の作品から。

千街晶之の一冊:阿津川辰海『最後のあいさつ』(光文社)

 八月は稀に見る豊作の月で、本来ならどれを月間ベストにするか迷った筈だが、ドラマ『相棒』のファンとしては、やはり阿津川辰海『最後のあいさつ』を選ぶ以外の選択肢はないのである。刑事ドラマの主人公役で知られた俳優・雪宗衛が殺人容疑で逮捕されるが、彼は役柄さながらに推理を披露して真犯人を暴く。そして三十年後、新たな事件が……という内容だが、雪宗衛はどう読んでも水谷豊のイメージだし、『相棒』以外にもさまざまなミステリドラマのエッセンスが鏤められている。錯綜した事件の構図から俳優の業が浮かび上がる傑作だ。

酒井貞道の一冊:野宮有『殺し屋の営業術』(講談社)

 ひょんなことから殺し屋企業の営業を担当する羽目になった凄腕営業マンが、殺し屋たちにすら気味悪がられつつ大活躍する……という物語ではあるのだが、ブラック企業勤めの主人公が営業スキルで無双する単純な展開は辿らない。曲がりなりにも表社会の構成員だった頃とは勝手がまるで違うため、蹉跌も障害も困惑もたっぷり味わう。敵も賢いし強い。紆余曲折するスリル満点の展開の中、主人公の空虚な人格が鮮烈に立ち上がっていくのが本書の肝と見た。三百ページ未満と手短にまとまっているのも素晴らしい。娯楽クライムノベルの精華。

若林踏の一冊:砂川文次『ブレイクダウン』(講談社)

『小隊』や『越境』といった作品で戦争小説・軍事小説の書き手としても注目される芥川賞作家・砂川文二が娯楽要素に徹して書いた、正攻法の活劇小説である。主人公の自衛隊小隊長とバディを組む大男の曹長がとにかく強烈だ。身近にあるもので武器を作り上げ、行く手を阻む敵を素手で情け容赦なく倒していく様子は、映画<遊戯>シリーズで松田優作が演じた殺し屋・鳴海昌平みたい。テンポ良く迫力に満ちた活劇描写が続くのが実に気持ち良い。娯楽場面だけではなく、国家と個人の関わり合いについて考えさせる重厚な小説でもある。

藤田香織の一冊:伏尾美紀『百年の時効』(幻冬舎)

 2021年江戸川乱歩賞を受賞した『北緯43度のコールドケース』でデビューした著者。派手さに頼らず、いいキャラクターを作る印象が強かったが、本作では昭和、平成、令和と、長い歳月にまたがる地道な事件捜査を飽きずに読ませる。軸になるのは昭和49年に起きた未解決の一家惨殺事件。その容疑者のひとりが令和6年に変死体で見つかり、所轄の若手女性刑事・藤森が時代に埋もれた難事件の捜査にあたる。事件の真相もさることながら、実直な昭和の刑事たちが記した事件の捜査ノートを託された藤森の逡巡からの覚悟と決意がいい。この警察小説はすごい!

梅原いずみの一冊:似鳥鶏『みんなで決めた真実』(講談社)

 舞台は、裁判の生中継が一大エンタメと化した社会。事件を解決する「名探偵」が推し活の対象となった世界では、たとえその推理が台本通りの出鱈目なものでも誰も疑問を抱かない。だって、〝みんな〟が求めるのは論理的な真実ではなく、面白くて考察が盛り上がる?だから――。そんな状況を覆すべく、老人ホームで余生を送っていた〝本物の名探偵〟は法廷で、かつての弟子にして現在売れっ子の紳士探偵と推理対決に挑む。コミカルな登場人物、意表を衝く練られた構成に加え、テーマに対し重くはない読み心地も◎。筆力の高さが感じられる。

橋本輝幸の一冊:天祢涼『その血は瞳に映らない』(光文社)

 アパートの隣人に母娘が凶器で襲われ、母親が命を落とす事件が起こった。ベンチャー企業傘下のニュースサイトで働く若手社員・守矢千弦は、犯人の動機「誰でもいいから殺して死刑になりたかった」に疑問を持ち、生き残った高校生・優璃と接触して独自調査を試みる。次々と新事実が明るみに出るが、はたして誰をどう信じれば良いのか。

 ネットの有名人かつメディアの人間である主人公の目から描かれた、ネット世論に左右されすぎる今ならではのミステリ。社会派だがハイテンポで派手で、二転三転する展開が読者を飽きさせない。

杉江松恋の一冊:砂川文次『ブレイクダウン』(講談社)

 秀作揃いの8月だったが、これを挙げざるをえない。肉親が何かの陰謀に巻き込まれて殺されたという事件を自衛官の二人が個人的に調べることから始まる物語なのだが、開幕早々、目的を達成するためには国家をも敵に回す覚悟があると決めさせられる瞬間がやってくる。つまりこの上ない犯罪小説なのである。高まった期待は最後まで裏切られることがなく、さながら大藪春彦活劇小説を読んでいるかのような昂揚感が持続した。途中で物語の舞台が大きく膨らむ箇所があり、国家の犯罪が描かれ始める。そこまでやるか、と唖然としながら読んだ。

 一作が重なりましたが、後はほぼばらばらでした。八月の豊作ぶりがわかります。ここで終わりではなくて、九月まで新作ラッシュが続くのですよね。これはたまらん、と悲鳴を上げながら読み続けることにします。また来月お会いしましょう。

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