『本好きの下剋上』なぜ星雲賞を受賞? 小松左京、田中芳樹らの作品に連なる“歴史に残るSF”となるか
第56回星雲賞の日本長編部門(小説)に香月美夜のライトノベル『本好きの下剋上~司書になるためには手段を選んでいられません~』(TOブックス)が選ばれた。これがニュースかどうかを迷う人がいるのは、星雲賞が何の賞か知られていなかったり、知っていても『本好きの下剋上』が当てはまるのかが分からなかったりするからだ。『本好きの下剋上』が星雲賞を受賞したことにどれだけの意味があり、どれだけの価値があるのか?
小松左京に井上ひさし、田中芳樹らが受賞している「星雲賞」
第1回は筒井康隆『霊長類南へ』だった。第5回は小松左京『日本沈没』が受賞した。いずれも日本のSF史に残る傑作だ。第13回は井上ひさし『吉里吉里人』。SFかと問われれば第2回日本SF大賞を受賞した立派なSF。第19回の田中芳樹『銀河英雄伝説』もスペースオペラというSFのジャンルを、日本において再燃させ定着させた作品としてSF史に名を残す。
ほかにも、眉村卓に堀晃に神林長平に大原まり子といったSF作家たちの作品が受賞作に連なる星雲賞の日本長編部門(小説)が、SF小説に与えられるものであることがこれで分かってもらえるだろう。その並びに新しく名前が刻まれることになって、8月30日と31日に東京・蒲田で開催される第63回日本SF大会「かまこん」の会場で贈賞される『本好きの下剋上』はつまり、SF小説に他ならないということになる。
そうなのか? 大学図書館に就職が決まって、これからの人生を好きなだけ本に耽溺できると思っていた女性が、地震で崩れてきた本に下敷きになって死んでしまって目覚めると、異世界に生まれ育ったマインという名の5歳の少女に転生していた。つまりは『本好きの下剋上』は典型的な異世界転生のフォーマットを持ったファンタジー。マインは大好きな本がまだ手で書き写す高価なもので、周囲にまったく存在していないことを嘆き、自分で本を作ろうと決意する。
マインは紙を作り印刷機を作りインクを作って本を作ろうとしする。前世で紙すき職人でも印刷工でも科学者でもなかったマインが、試行錯誤を繰り返し周囲の協力も得ながら目的に近づいていく姿から、読む方もそうした技術の発展に関する知識を学んでいける。
現実には起こりえないシチュエーションに人が直面した時に、どのような変化が生じるのか。それを想像し思索する行為を促すところがある作品を、SFなり広義のSFとしてのファンタジーと認めることができるなら、『本好きの下剋上』はなるほどSFと言えるだろう。途中で名をローゼマインと改めた主人公が、第五部に入って神の力を身に宿して世界を変えようとする展開も、この作品にファンタジーとしての厚みを与えている。
「星雲賞」の選考基準は
ファンタジーなら2010年に栗本薫『グイン・サーガ』が受賞して先例になっている。『グイン・サーガ』の場合は世界が存在する背景に、宇宙規模のスケールを持った設定があって、空想科学小説としてのSF味を感じさせてくれた点が、『本好きの下剋上』とは少し違っているかもしれない。とはいえ、海外長編部門(小説)まで広げれば、マイケル・ムアコックの『エルリック・サーガ』のようなファンタジー作品も受賞作の列に並ぶ。必要なのはファンが星雲賞に相応しいと認めるかどうかだ。
星雲賞は一種の人気投票だ。日本SF大会に参加する人たちにだけ投票権が与えられていて、獲得した票数の多寡によって受賞作が決まる。候補作というものはなく、決められた期間内に刊行された完結している作品から、日本SFファングループ連合会議加盟団体が推薦したものが参考作として提示されるが、必ずしもそこから選ぶ必要は無い。
第56回星雲賞で「日本長編部門(小説)」の参考作として挙げられたのは、第45回日本SF大賞の候補作だった春暮康一『一億年のテレスコープ』や、芥川賞作家で日本SF大賞も受賞したことがある円城塔『コード・ブッダ』など本流中の本流とも言えるSF作品ばかり。ライトノベルの電撃文庫から刊行された不破有紀『はじめてのゾンビ生活』も入っていたが、ポストヒューマンの未来史を示したという部分でSF味が濃かった。
『本好きの下剋上』はその中から見事に受賞を果たした。どのような得票分布になったのかは分からないが、結果がすべてとするならそこに異論が挟まれる余地はない。
ライトノベルがSFの賞を獲った背景
それでもやはり、ライトノベルの領域から受賞作が出ることは珍しい。最近では、第53回でガガガ文庫から刊行の牧野圭祐『月とライカと吸血姫』が、藤井太洋『マン・カインド』と並んで日本長編部門(小説)を受賞した。『月とライカと吸血姫』は冷戦時のソ連とアメリカをモチーフにした国々で、それぞれ宇宙での有人飛行を成功させようと研究が進む中、吸血鬼という人間とは少し違っていて、差別も受けている存在がテストパイロットに起用されるというストーリー。今の社会にも根深く残る差別や独裁にフィクションを通して気づかせるところもあって評価された。TVアニメが好評だったことも認知度アップに働いたようだ。
こうした背景やタイミングも受賞では重要となってくる。投票権を持つ日本SF大会への参加者は、ガチのSF読みの濃度が割と高めで、読んでいる作品も早川書房や東京創元社といったSFが得意な出版社から刊行された、SF度の濃い作品が多くなる。参考作に見知った名前が並んでいれば、そうした作品に投票したくなるのが普通だろう。
それにも関わらず、『本好きの下剋上』が選ばれた背景に、2010年の「TOKON10」以来実に15年ぶりという東京での開催で、参加を希望する若いファンが増えて『本好きの下剋上』を知っている人も多かったことがあるのか? 実際に参加して年齢層を見ることで何らかの示唆を得られるかもしれない。
ちなみに第56回星雲賞の「コミック部門」は市川春子『宝石の国』。すでに第45回日本SF大賞を受賞しており、大友克洋の傑作『童夢』に続いて星雲賞と日本SF大賞の2冠に輝く作品となった。メディア部門は小さい劇場から始まって第48回日本アカデミー賞で7部門を受賞するまでに至った安田淳一監督の『侍タイムスリッパー』(2024年)が獲得した。
こうした話題性も抱負な第56回星雲賞の授賞式は、東京・蒲田の日本工学院アリーナで8月31日に開催されるが、実はメインとなる分科会プログラムが実施される有料エリアに入らなくても無料で観覧できる。興味がある人は、『本好きの下剋上』がSFで果たした“下剋上”をその目で確かめよう。
付け加えるなら、「かまこん」は学生(25歳以下)なら分科会プログラムにも無料で参加できる。大学生が最強のSFを決める企画やSFプラモデルについて語る企画、ゲーム会社のセガについて語る企画にAIやロボットに関する企画など、様々な企画が2日間にわたってびっしりと予定されている。若い書き手も増えて若いファンも増えれば自分たちの好きなSFも増えていく。SFのこれからを自分で拓いてみたい若い人には、いろいろと得られる場になるはずだ。