後藤護の『ジェイムズ』評:「病的にアイロニック」な黒の仮面術
「この話に主題を探す者は起訴される。教訓を探す者は追放される。構想を探す者は射殺される」。これはマーク・トゥエインの名作『ハックルベリー・フィンの冒けん』巻頭に据えられた警告文であったが、では大胆にも、この話の主人公を白人少年ハックから黒人奴隷ジムに転倒させる不届き者があれば、いかなる処罰が下されるのであろうか? パーシヴァル・エヴェレット『ジェイムズ』はまさにそれをやってしまった問題作だ。アメリカ白人文学の古典(キャノン)を忠実になぞるフリをしながら修正・批判を加えていく、つまり白人の言説を熟知したうえで手玉にとっていく「もの騙り(シグニファイング)」の黒人伝統に連なる作品と見ていい(小説内でも一度だけ出てくるこの「シグニファイング」なるトリックスター概念を知りたい向きは、邦訳もあるヘンリー・ルイス・ゲイツ・ジュニア『シグニファイング・モンキー』の併読をすすめる)。
『ハックルベリー・フィンの冒けん』はヘミングウェイも言うようにアメリカ文学の偉大なる源流であり、子どもの「ラディカル・イノセンス」(イーハブ・ハッサン)そのものであり、この小説がなければサリンジャー『ライ麦畑で捕まえて』も、チャールズ・ロートン『狩人の夜』も、テレンス・マリック『バッドランズ(旧題:地獄の逃避行)』もなかったかもしれない。「冒けん」という一語にニュアンスされた少年時代のイノセンスの輝きに、私などは今でも胸打たれる。とはいえ、この「冒けん」は白人中心のものであり、しかも語り手は嘘ばかりつく子供であり、そのため黒人奴隷制度の血も凍る悲惨さは殆ど描かれることなく、Nワードばかりが215回も使われる問題含みの作品でもある。つまり、アフロ・アメリカンからしたらツッコミどころ満載なのである。
トウェイン原作でハックのお伴をしたジェイムズ(ジム)は「訛りのある素朴な黒人」というステレオタイプを生きる存在であったが、パーシヴァル・エヴェレットはそんなもん白人のご主人様を喜ばせるための「仮面」に決まっているだろうとのっけから暴露してしまう。黒人が白人に話しかけるときは不正確な文法を「正しく」用いなさい、白人の期待に背かない言葉を話しなさい、彼らが優越感に浸れるようにしなさい、しかし黒人どうしで話す時は遠回しにしゃべりなさい、などとジェイムズが奴隷の子供たちにレクチャーしている姿は、「白い」マーク・トウェイン読者たちを思い切り居心地悪くさせるものだろう。
いわばジェイムズは、白人に見せる無表情な仮面の裏側に、黒人奴隷どうしでのみ通じる秘密のコミュニケーションを隠しこんだ二重存在なのである。これは作品内に頻出するキーワードでいえば「アイロニー」である。「皮肉」という、アイロニーのポテンシャルの20%ぐらいしか訳せた感じのないしょぼい訳語よりかは、「反語」とか「二重性」とでも訳したほうがよりニュアンスとしては近い。バカそうな皮をかぶって油断させて実は頭が良いというソクラテス式アイロニーであるとか、すべての正当性を疑ってかかる深淵な懐疑主義であるロマンティック・アイロニーであるとか、アイロニーにも様々な種類があるが総じて言えるのは、一義的な解釈を拒む多義性に開かれた表現と言うことで、『ジェイムズ』で堪能できるのは黒人奴隷の(絶望先生そこのけの)自虐的アイロニーの数々である。しかも作者エヴェレットが自らの作風を「病的にアイロニック(pathologically ironic)」と評している通り、偽善的な白人の目をひん剥かせるような攻撃的アイロニーが汗牛充棟詰め込まれている。「私は傷ついた演技をした。白人は罪悪感にさいなまれるのが大好きだからだ」など。
ところで、この黒人奴隷のアイロニーの無表情の仮面こそが、20世紀カウンターカルチャーの超重要概念〈クール〉を生み出していたことが、『クール・ルールズ』(研究社)という本を読むと分かる。「〈クール〉のおかげで、白人の奴隷所有者の支配の及ばないある象徴的な領域、つまりひそかな黒人どうしの会話を手に入れることができたのである。白人の奴隷所有者たちの眼に映ったのは、皮肉たっぷりのこびへつらいのふりだけだった。〈クール〉の仮面の裏には、奴隷たちが感じていた軽蔑と憤怒が隠されていた。もしそれをあからさまに表現したら、たちまち容赦ない身体的懲罰が待ち受けていただろう」。つまりマニエリスム理論家バルタザール・グラシアンの『手の信託』にある「口の軽いものは、たちまち淘汰されるか、罪を着せられることになろう」という警句を十分に理解した存在が黒人奴隷であり、彼らに倣い、内圧が高まろうと感情を冷却する仮面のテクニックを心得た者が〈クール〉な人々なのである。しかし、この小説でジェイムズが装着したもっとも珍奇な仮面とはクールではなく、ミンストレル・ショーの要求するそれに他ならない。
『ハックルベリー・フィンの冒けん』の物語をなぞっていたはずの『ジェイムズ』は、主人公ジェイムズがダニエル・ディケーター・エメットのヴァージニア・ミンストレルズ一座に売られてしまうことでトウェイン原作から大きく逸脱していく。ミンストレル・ショーとは白人が靴墨などで顔を黒塗りし、黒人を戯画化した荒唐無稽なパフォーマンスで人気を博したアメリカの人種差別的な見世物興行だ。するとこの一座にジェイムズが加わったことは極めて倒錯的な効果をあげていると分かる。ジェイムズは黒人だ。しかし、カッコつきの「黒人」となるために彼はメイクをしなければならず、そのメイクの下の素顔は「白人」であると、観客に信じさせなければならない。黒人が「黒人」を演じるこのバカバカしい儀式を描くに際して、ヒューストン・A・ベイカー・ジュニア『モダニズムとハーレム・ルネッサンス』(未来社)の第3章「ミンストレル・ショー 仮面に宿る精神」の以下の一節を、パーシヴァル・エヴェレットは参照したのではないかと私は勘繰った。
「ニグロとなるためには、つまり仮面の要求に従ってニグロとなるためには、ミンストレル・ショーの大枠と一致する必要がある(バート・ウィリアムズとジョージ・ウォーカーという黒人のエンターテイナーが、自分たちを「正真正銘の南部ニグロの二人組」として売り出したとき、彼らは言うに言われぬ裏返しの効果をあげていた)。黒人が「黒人」を演ずるといったこうした一致が、人をナンセンスの領域へ真っ逆さまに追い込むのである。この意味のなさ(ナン・センス)という儀式を中心的に支えているものこそ、ミンストレル・ショーの仮面である。」
とはいえ、ジェイムズは白人の作り上げたミンストレル・ショーのシステムで踊らされるばかりの無力な存在では終わらない。彼は読み書き能力(リテラシー)があるという設定になっているのだ! 小説冒頭から、サッチャー判事の図書室に忍び込んだ形跡のある彼は、夢の中でヴォルテールやルソーと自由に関する議論を戦わすほどにインテリでさえある。そしてさる黒人奴隷から盗んでもらった鉛筆を、彼は後生大事にもって旅を進める。「私は鉛筆を使って書くことで自分を生み出した。私は書くことでここまでやって来た」と語るジェイムズは、たった一本の鉛筆が、どんな武器よりも強力な白人社会にプロテストする最大の武器、不都合な物語を書き換える力となることを、沸々と予感している。「ペンは剣よりも強し」というクリシェの重みを十分に理解したければ、読み書き能力を奪われた黒人奴隷の境遇に一度、くそまじめに想い馳せてみることだ。世界を変える言葉には、甘ったるい誠実さよりも底から突き上げてくる切実さが求められることを、『ジェイムズ』はアイロニカルに教えてくれるはずだ。
■関連情報
リアルサウンド ブックでは後日、本稿の著者である後藤護氏と、ジャズ・ミュージシャンの菊地成孔氏による『ジェイムズ』の対談を公開予定!
■書誌情報
『ジェイムズ』
著者:パーシヴァル・エヴェレット
価格:2,750円
発売日:2025年6月27日
出版社:河出書房新社