杉江松恋の新鋭作家ハンティング 〈わたし〉のために書かれたような物語ーー池澤春菜『わたしは孤独な星のように』

 たとえ明日世界が終わるとしてもあなたとつないだ手が暖かいことに変わりはない。

 池澤春菜『わたしは孤独な星のように』(早川書房)は、これまでにエッセイなど多数の著書がある作者が初めて世に問う小説集だ。何の気なしに読み始めて虜になり、そのまま最後までページをめくり続けてしまった。抜群におもしろい。

 収録された7作はすべて狭義のSFであり、「あるいは脂肪でいっぱいの宇宙」(筒井康隆『あるいは酒でいっぱいの海』)、「宇宙の中心でIを叫んだ私」(ハーラン・エリスン『世界の中心で愛を叫んだけもの』)のように題名が過去作のもじりになっているものもある。こちらがSFに疎くて気づかないが、元ネタがあるものも他にあるかもしれない。

 昨年は雑誌『怪と幽』(KADOKAWA)で「きのこ特集」が組まれたり、今年になって飯沢耕太郎編で『泉鏡花きのこ文学集成』(作品社)が刊行されたりと、きのこ小説は近年どんどん盛り上がっている。巻頭の「糸は赤い、糸は白い」は、もしきのこアンソロジーが編まれることがあったらぜひ入れていただきたい作品だ。物語の舞台はおそらく、今よりもそれほど先ではない未来に設定されている。

  その世界ではきのこと人間が共生を果たしているのである。一部のきのこは菌根菌といって、糸状体を特定の植物の根に着生させることで共生している。人間の脳とその共生関係を持つ、脳根菌とと呼ばれる新種が発見されるのである。感染した人間同士は菌糸を通じてmycopathyと呼ばれる共感能力を持つことになる。これによって人間社会は一変し、平和共存が実現することになった。きのこのおかげである。

 大きな設定は以上だ。それを前提に繰り広げられるのが高校生の主人公・上野音緒の青春物語である。成長の過程において、すべての人がマイコパシーのため、なんらかのキノコ由来の共生菌を宿すことが当たり前となる。進路問題が一つ増えるのである。自分はどんなキノコを選んだらいいのか、と悩む音緒は同世代のコッコこと徳江康子と運命的な出会いを果たす。あだ名で呼び合う関係に入るのも新記録で早かったコッコとは、この先もずっと一緒にいたいと思うようになるのである。

 全体を見れば人類が新しい局面に入っていくという大きな変化の叙事詩であり、前景に自分の長い人生を前にしてその重さにおののく主人公の成長物語が置かれる。大小の対比が作品の魅力であろう。キノコという設定を外せば一般的などこにでもいる少女たちの話になる。この構造は他の収録作とも共通している。

 いちばん、あるあると言われそうな出だしなのは、コミカルな「あるいは脂肪でいっぱいの宇宙」だろう。人に会わず、飲み会もリモートでするのが当たり前だったあの新型コロナウイルス蔓延の巣籠り期、運動不足と人に会わなくなった油断からつい体重が増えてしまったという人もいるだろう。主人公の上出萌もその一人で、ひさしぶりにオフラインで会おうという話が持ち上がって大いに慌てる。再会までに絶対BMIを引き下げなければ、と頑張るのだがまったく効果がないのである。「デブデブの実の呪いでは……?」と疑いたくなるほどに。涙ぐましい努力が続き、ついにダイエットをテーマにしたTVのリアリティーショーから声がかかるほどになるが、状況は一切変わらない。

 ここまでならすでに誰かが百本くらい書いていそうな展開である。それが、あることがきっかけで、とんでもない話に化ける。こんなの初めて読んだ、と100人に聞いたら99人くらいは答えそうな気がする。その後の展開は法螺の風呂敷が広がりに広がって、細かくは書かないが物理学知識を駆使した壮大な話になる。

  しかも「ぼく、もえたま(上出萌)のパートナーだもん」と言い出すマスコットまで登場する。キュウべぇか。断っておくが、まったく可愛くないマスコットである。収録作の中では唯一続篇があって、「宇宙の中心でIを叫んだワタシ」がそれである。こっちは分類が難しい話だが、強いて言えば、ううん、言語SFか。関東地方では日曜日午後に放送されていた某有名アニメに似た展開があって、思わず昭和の気分になった。

 ここまで書いてギャグ面ばかり強調していたことに気づいたので、もっと大事なことに触れておく。本作で重要なのは詩情である。青春と呼べる期間は限られている。過ぎてしまった時間は二度と戻ることがない。取り合った手の温もりは、いつか皮膚から失われ、忘れてしまうかもしれない。そうした一回性、不可逆の変化への思いを池澤は綴るのである。

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