批評的な知性や感性が難局に立たされているーー渡邉大輔『謎解きはどこにある』×若林踏『新世代ミステリ作家探訪』対談

ミステリ的な想像力が二極化している

渡邉:本を書き終えた後に、もっと展開すればよかったと思った論点が1つありました。拙著では、現代ではミステリ的な想像力が二極化しているということを述べています。一方の極は、藤田直哉さんの『娯楽としての炎上』(2018年)とか、笠井潔さんとかも書いていますが、ポスト・トゥルースという言葉が流行ったように、現代では、人が客観的な唯一の真相にこだわらなくなってきた。米澤穂信『インシテミル』(2007年)の世界ですね。「みんなが思う真相っぽい真相でいい」みたいな、真相のマルチバース的なリアリティがミステリでも描かれるようになった。また、『謎解きはどこにある』では稲田豊史『映画を早送りで観る人たち』(2022年)に触れましたけど、ミステリの長い話を観るのに疲れて、コスパ重視、タイパ重視でサクッと面白いものが見られればいいとなっている傾向もこれに関係しています。

 一方、去年の『VIVANT』とか、考察ドラマの謎解きを楽しむ世界も有力さを増している気がします。それに関して、書評家の三宅香帆さんやライターの飯田一史さんが、最近、「批評」の時代が終わり「考察」の時代になったというようなことをいっていますね。批評とは、一つの作品には解釈の多様性があり、いかに多様な読みを生み出せるかに価値とみる考え方。一方、考察は、陰謀論的な発想にもつながりますが、本当はこうですと単一の真相があるようにいう。例えば、大学の講義で、映画について僕なりの批評的な読みを解説すると、「そうだったんですね!」と解釈の1つではなく、それが真相だと受けとるような、ある意味で素朴な反応が、ここ数年で目立ってきた実感を持っています。こういう点でも、ミステリに限らず、謎や真相に対する感じ方が変わったのではないか。

若林:YouTubeを見ていると『ONE PIECE』の考察系ショート動画が多く流れてきて、「これは作者が仕込んだ伏線に違いない!」という風に投稿者が様々な考察を披露するんです。それは作品の鑑賞というより、「これこそ作者が描きたかった真実である」という唯一無二の答えを多くが知りたがっているように見えるんですよ。この感覚はどこからくるのか、ミステリに寄せて考えると、2010年代はどんでん返しものが多かった。どんでん返しってワンアイデア的なものですよね。真相はこうだと思ったけど実はこうでしたと、一発あればいい。ひっくり返しがあるはずという願望と、それさえあれば満足する傾向がある。

渡邉:批評が読まれなくなって動画ばかり見るようになった。活字ではなく語りですよね。

若林:誰が語るか、誰が楽しい気分にさせてくれるかに依存しているところがある。僕が杉江松恋さんと書評動画(「ミステリちゃん」)を撮る時、評者のキャラで見てもらうより、作品の構造をどう読むかを解説したい。だけど実際は、喋りのテンションでかさ増ししている部分もあるのではないか、と自分で不安になりますし、悩ましい。

――それぞれ近年に面白かったミステリ小説をあげてください。

渡邉:若林さんほど、新刊を満遍なく読めておらず、心許ないのですが……。それでも、京の冒頭で出た「オブジェクト指向化」というテーマだと、ここ20、30年くらいメタ的、観念的な仕掛けがトレンドになりましたけど、杉井光『世界で一番透き通った物語』(2023年)はそういう部分がありつつ、電子化が進むなかで書籍、活字というオブジェクトそのものをある種のミステリ的な趣向にしていて感心して読みました。

若林:注目しているのは、方丈貴恵さんです。特殊設定ミステリ流行の理由を考えるのも重要ですが、あれがなにをもたらしたかを考えるのも重要でしょう。その1つにミステリで物証を重視する大切さが再認識されつつあると、『孤島の来訪者』(2020年)など方丈作品を読んで感じます。特殊設定は、特異な世界が提示され、作者の恣意的な部分も含まれていて、読み手としてはなにが起こるか信用ならない。だから、謎を解くための確固たる物証がどこかにあるはずだという、読者の信頼を担保しなければならない。その点、方丈さんは、謎解き作家として優れている。阿津川辰海さんもそうです。

 端正な本格をバックラッシュとする見方がありますけど、僕はそうは思いません。特殊な状況下を描くものが流行ったからこそ、ミステリとしてパッケージするために手がかりの重視が強まっている。そう考えるのが正しいと考えていますし、それを優等生的な本格と否定的にいうことには違和感を覚えます。

――今日、タイプの違う書き手同士で話してきて、いかがでしたか。

若林:僕は抑えているつもりなんですが「熱量ありますよね」と意外にいわれるんです。書評家として非常に有難いと思う反面、熱量のあるなしのみならず、いかなる切り口を持って評しているのかにも着目してもらいたい気もしています。その意味でいろんな切り口から言葉にしてくれる批評書は大事だし、『謎解きはどこにある』は、僕のなかのモヤっとしたものを形にしてくれてありがたかったです。

渡邉:僕の場合、これはミステリかそうではないのか、映画評でも映画なのかそうではないのかという、ジャンルが生成したり変容したりするところに関心がある。変なポジションですし、カッコつきの「マイナー」な批評家だと思います。ただ、僕のようなニッチな書き手が機能するのは、当たり前のことですが、若林さんのようなジャンルについて豊かで正確な知識を持っている方がいらっしゃるからこそです。今日は、若林さんの胸を借りることで、いろいろな示唆をいただきました。今後も、相乗効果で刺激を与え合いながら、ミステリというジャンルを盛り上げていけたらいいなと思っています。


関連記事