杉江松恋の新鋭作家ハンティング 日比野コレコ『モモ100%』に溢れる“強烈な言葉”たち

 高らかに宣言するような始まり方をする小説である。

 日比野コレコ『モモ100%』(河出書房新社)は中学三年生の少女たちがテニスコートに立つ情景から始まる。第一文が「テニスコートに落ちたそばかすとニキビとほくろとを仕分けるような毎日だった」というのにまず心を掴まれた。ラリー練習の順番を待つ時間に、日々のよしなしごとやどうでもいいゴシップを交換しあう日常のことがそう表現されるのだ。その少女たちの一人が語り手であるモモである。

 第一景から第二景に移り、二十二時の電車を降りて家路をたどるモモは一人で読者の前に現れ、星野、お気に入りの表記によれば★野という同年齢の男を自分がいかに好きになり過ぎているか、その気持ちを中心において生きていることでどれほど心が高揚しているのかを内的言語でとうとうと述べるのである。そして突然読者に呼びかける。「だから、当然のようにエビフライのしっぽを食べる人へ。どうしても、わたしの全部を愛し切ってほしい。わたしがでたらめに話したほら話の尾ひれまで食べてほしい」と。この呼びかけは「さあ、今ここで、耳をぶっちぎって尻を拭えよ」という勇ましい一言で締めくくられる。そこから始まるのはモモが中高一貫校で過ごし、そこを卒業した後の一年間は全力疾走で止まれずに少しはみ出してしまった十代の日々についての叙述である。

 一口で言うならば恋愛に関する小説ということになる。ただしモモにとって恋愛とは自身の生を主体的に生きるための道具のようなものだ。ふわふわとした心の動きを描くのではなく、恋愛という場に自らを投げ込んでみて初めて判明したことが綴られていくのである。「中学二年生のときに、モモの通わないどこか私立の中高一貫校から、モモの通う中高一貫校に編入してきた」星野は、クラスの女子にかたっぱしから告白しては振られ、そのゴシップを鎧のようにまとうことによってオフィシャルな星野像を形成していくことで、長い学校生活をまっとうしようと企むような少年だった。モモもやはり星野に当然のような形で告白され、相手が意外に感じたかもしれないことにそれを受け、他の誰ともしたことがないような恋愛至上主義の毎日を送ることになる。

 星野に惑溺しているように見えて実はそうではないモモは、彼の他人とは違った生き方戦略を理解していく。

——そもそも星野は、自分の心の扉をかたくかたく閉じておくと決めた人で、そして、それを絶対に開けられないように、わかりやすいところに設置したフェイクの扉を開けっぱなしにしておくという手段をとっている人間なのだ。そのはずなのだ。[……]

 この見極めは実に正鵠を射たものであったことが後にわかる。母親が敷いているレールにそのまま乗ることに倦怠と忌避感を覚えているらしい星野は、やがて高校からも自主的な形で遠ざかっていく。それに伴ってモモとの一心同体の関係にも変化が見られるのだ。ここでおもしろいのは、そうした一心同体関係がある程度継続した後に行われるであろうある儀式を、星野はモモとの間に、とりあえずといった感じで取り交わしてしまうことである。ひとつながりのイベントで恋愛という現象が語られることに慣れていると、このくだりにはぎょっとさせられる。星野は観察者の裏をかくことに徹していて、モモはそれを解釈することに意義を見出す。星野との関係を通じて自分の存在を確認しているようにも見えるのである。恋愛小説だが、自分がこの世界の中でどれほどの位置を占めて、どのくらいの可能性を有しているかという思弁の物語でもある。それを星野との対関係で行うという点に独自性があるのだ。

 日比野コレコは2022年、『ビューティフルからビューティフルへ』(河出書房新社)で第59回文藝賞を獲得してデビューした。同時受賞は安堂ホセ『ジャクソンひとり』(同)である。『ビューティフルからビューティフルへ』の版元紹介文には「卓越したパンチラインで注目を集めた」とある。Punch lineとはwords that give that give the point of a joke or story、つまり「落ち」のことだが、ここでは音楽のラップにおける用法で、その曲の印象を左右するほどの強烈な印象を与える歌詞の意、転じて用語の妙を指しているのだと思う。ラップは専門外なので、誤解があったら申し訳ない。

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