恋人同士になれない男女が見出した幸せのかたちーー畑野智美『ヨルノヒカリ』が描く救い

 ドラマ『ゆとりですがなにか』の第4話で、島崎遥香演じる就活中の大学生・ゆとりが、柳楽優弥演じるガールバーの店長・まりぶにこんなことを言うセリフがある。「就活して就職して結婚して子ども産んで、そんなわかりきった人生のスタートラインにも立ててないんです」。社会に必要とされていない自分に劣等感を覚えて焦る彼女の気持ちはよくわかるし、難癖つけようというわけでもない。けれど〝就職して結婚して子ども産んで〟が〝わかりきった人生〟として形容されていたことに、奇妙な感慨を覚えた。もし今、この令和5年に脚本を担当していたら、宮藤官九郎は同じ表現を選んだだろうか。

 畑野智美が十年ぶりに書き下ろした長編小説『ヨルノヒカリ』は、その〝わかり切った人生〟から外れた二人の男女を中心に描いたものである。母親が家を出て以来、ひとりで暮らしていたアパートを立ち退かなくてはならなくなり、わずかな猶予も台風で部屋の窓が割れたことで追い詰められた28歳の光は、たまたま見かけた住み込み可の従業員募集の張り紙に吸い寄せられるようにして、いとや手芸用品店を訪れる。店主は、亡き祖母の遺志を継いでひとりで切り盛りしている35歳の木綿子。手芸に関すること以外はずぼらで、料理もろくにできない木綿子にかわり、家事が得意な光は、店舗兼住居であるその家での暮らしを健やかに整えていく。異性ということで漂っていた遠慮や緊張も次第に消え、二人は穏やかに信頼関係を築いていくのだが、血の繋がらない独身の男女が同居していると、とかく口をはさみたがるのが世間というものである。だが二人にはそれぞれ、簡単に恋人同士になれない理由があった。

 光の母は、恋多き女だった。光の苗字は何度も変わり、変わらなくても母の相手が入れ替わることは多々あり、ときにその相手からむごい仕打ちを受けた。それでも、懸命に母との生活を守ろうとしていた光を置いて、母は男と一緒に出て行ってしまった。その痛みを抱えた光は、恋愛感情で誰かとつながることを信じきることができない。そして木綿子は、これまでの人生で一度も誰かを恋愛的に好きになったことがなく、そういう意味での好意を向けられると、受け止めることができないのだ。

 光と木綿子を見守るのは、彼らの幸せを心の底から願う人たちばかりで、何か事が起きてはまずいとか、いい感じなのだから付き合ってしまえばいいのにとか、言わずにはおれないのは二人のことを、やっぱり心の底から心配しているからだ。でも、世間が〝わかりきった〟ように感じる流れに、二人は自然に乗ることができない。そしてそれを、上手に説明して、まわりを納得させることができない苦しさもまた、二人は抱えているのである。

 それの、何がいけないのだろう。光も木綿子も、ともに暮らすことをなんら苦に感じておらず、相手が笑顔で幸せそうだと自分も嬉しくなるくらいには、お互いのことを大切に思っている。詳しい事情は知らなくても、過去になんらかの傷を負っていることは互いに察していて、踏み込みすぎないように気をつけながら、再びその傷が開いて心を壊すことがないよう、祈ってもいる。そんな二人の間に〝恋〟の感情がないからといって、いったいなんだというのだろう。二人の関係を、誰かに納得してもらう必要もなければ、わかってもらうために心の大事な部分をさらしてまで説明する必要もない。二人が幸せで、今の暮らしに満足していればそれで十分なはずなのに、うまくいかない。そんな理不尽なことはない、と思う。でもそれは、他でもない光と木綿子自身が、〝わかりきった〟状態にない自分たちにどこかで劣等感を抱いているからでもある。

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