杉江松恋の新鋭作家ハンティング 現役プロレスラー・TAJIRIの初小説『少年とリング屋』を読む

 これは夢の小説だ。
 
 『少年とリング屋』(イースト・プレス)は現役プロレスラーのTAJIRIが初めて発表した小説である。TAJIRIがどんなプロレスラーかは後で書く。『少年とリング屋』はプロレスについての小説なので、プロレスラーが自分の熟知するジャンルについて書いた作品ということになる。もう少し違う言い方をすると、プロレスというジャンルに対して人が抱く夢について書いた小説だ。

 プロレスに関する小説は多い。怪談作家として知られる黒木あるじの『掃除屋 プロレス始末伝』(集英社文庫)は近年の話題作だ。これはプロレスの裏についての物語で、主人公は素人にはわからないところで仲間内のけじめを取る役を担う職人レスラーという設定になっていた。古い作品だと、桐野夏生『ファイアボール・ブルース』(文春文庫)がある。これは女子プロレスラーを描いた作品だ。ノンフィクション作家・井田真木子と桐野が知り合ったことから生れた小説である。女子プロレスラーに惹きつけられる少女たちに井田は関心を抱き、取材を続けた。『プロレス少女伝説』(文春文庫)で第22回大宅荘一ノンフィクション賞も受賞している。小説ではないが、プロレスが誰かの夢であるということを明確な形で文章にした最初の作品であるかもしれない。『少年とリング屋』の源流はだいたいそのへんにある。

 『少年とリング屋』は六話で構成されたオムニバス形式の作品である。巻頭の表題作は、学校になじめず、プロレスを観戦することだけが唯一の希望となっている仲川翔吾という中学生が主人公である。ある日少年は巡業にやってきていたニュー日本プロレスのリングを運ぶコンテナトラックに潜り込む。母親と口論になって家を飛び出してしまった。学校は嫌いだから高校に進むつもりはない。プロレスラーになるというかねてからの夢を叶えるため、関係者に直訴するつもりなのである。トラックは東京を発して大阪に向かう。途中で翔吾は車を運転していた権田大作に見つかった。権田は興行に必要な資材の運搬を担当する、通称リング屋である。

 次の「醜い顔」で、その権田もかつてはプロレスラー志願者で、ニュー日本プロレスの入団テストを受けていたことが明かされる。権田と同日にテストに臨んだのは、現在ではニュー日本の看板レスラーになっている佐々原和彦である。「最強なのは俺なんだよ」の決め台詞で人気のある佐々原は翔吾にとって憧れの存在だ。だが、彼もすでに四十代になり、肉体の衰えを実感しつつある。第五話の「俺は何者」は、盛りを過ぎた男が改めて自分と向き合わなければならなくなり、他人には言えない過去の記憶に悩まされるという物語である。このように視点人物が交替しながら各話が綴られていく。

 第三話の「かっこいい女」で主役を務めるのは翔吾の母親・琴絵だ。夫の不実な態度と、凡庸な日常への不満を抱く彼女は、ある日夢に目覚める。ジュリアンナというプロレスラーに心を奪われたのだ。彼女の颯爽とした姿に憧れ、自分も身体を鍛え始める。この第三話と第四話の「『全然満足していません』」は対になっている。こちらの視点人物は翔吾の父親・太一である。妻以外の女性との浮気を繰り返す太一は、つきあう女の質がどんどん低下していることに気づいていた。ある日彼は、弱小団体Beginningの若きエース・真萌瑠に一目惚れする。現在の女子プロレス団体では選手がSNSなどを通じてチケットを手売りすることが一般的であり、グッズ販売も熱心に行われている。そうしたファンサービスが重要な収入源になっており、もちろんそれは仕事なのだが、太一は勘違いしてしまう。真萌瑠は俺に惚れている、と。

 中年男が娘ほどに歳の違う女性に入れあげる姿がこれでもかというような痛さで描かれていく「全然満足していません」は本書の白眉というべきだろう。太一は、いわゆるプロレスおたくたちを完全に見下しているのだが、当の本人がそれよりももっと醜いということに気づいていないのである。SNSでの真萌瑠への絡み方を見るだけでお腹が痛くなってくる。

[真萌瑠]函館でお世話になったKさんにカニを送っていただきました!☆ いつもありがとうございます♪
[TAICHI]Kさんて誰? 気になる書き方じゃん。
[TAICHI]また返事ないわ(悲)
[真萌瑠]Beginningのみんながお世話になってる水産会社の社長さんです!
[TAICHI]社長さんかよ…なんかがっかり
[TAICHI]おいおい、またか(怒)
[TAICHI]信じてるぞ

 琴絵はプロレスに触れたことで自分を変える決心をした。太一はプロレスを自分の欲望を実現できる都合のいい場だと解釈した。自身の夢を投影しているという意味では両者同じなのである。作者はそうした形で夢の多様なありようを描いていく。最終話「夢の結末」では翔吾に視点人物が戻され、彼のその後が描かれる。果たしてプロレスラーになりたいという彼の夢は叶うのだろうか。

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