福嶋亮大 × 樋口恭介が語る、ネットワーク社会における批評家のあり方 「宇宙人とか天使のような視点から書く必要がある」

凍結された問題へのアプローチ

樋口:社会を発展させるためには、個々人が淡々と思考したりすることがとても大事だと思いますが、SNS以降のメディア環境だとそうすることすら難しい。仰るように、わけても本は難しい立ち位置にあると思います。僕もSNSをよく使っているので、あまり言える立場ではありませんが(笑)、Twitterでバズったら勝ちみたいな感じで、物事の評価がSNS的なアテンションと結びつきすぎているところがある。一方で福嶋さんのこの本は、一見すると書評集という人畜無害に思える体裁を採りながら、実は昨今の出版業界を含むメディア環境に対してアグレッシヴに物申していますね。うまくSNSのアテンションの構造から逃れて、思考を巡らせることに成功している本だと思います。

福嶋:僕はもうSNSを見ていないので、何がどうなっているかあまりわからないんですけれど、なくても情報収集に困ることはないですね。GoogleとかAmazonはめちゃくちゃ使っていて、それはそれで良くないと思いますけど…。さておき、アテンションばかりになることの何が問題かというと、人々の認識に大きな時差が生まれるということなんです。

 ちょっと唐突ですが、僕は氷河期世代で、就職状況は悲惨だったわけです。僕はたまたま大学教員をやっていますけど、それはたんに運が良かっただけです。氷河期は主体の時間そのものを凍結させるようなところがある。しかも、それが時を経て、急に解凍されたりするわけですね。例えば、暗殺事件を起こした山上徹也は僕と同世代ですが、あの事件こそまさにずっと凍りついていた問題が解凍されたってことだと思いますね。

 結局、吉本隆明が言うところの共同幻想(共同体を織り成す幻想)と対幻想(家族やカップルを織り成す幻想)では、時間の流れ方が違っているわけです。山上の場合は、家族の時間がずっと凍結された状態にあった。共同幻想のレベルでは、統一教会だの霊感商法だのはすでに過去のものということになっていた。しかし、対幻想のレベルにおいてはそうじゃなかったわけです。

 僕の中にもやはり凍結されているものがあると自覚しています。それが物理的な暴力という形で噴出することはないだろうけれど、しかし共同体の一元化された時間の中では絶対に回収できないものです。おそらく多くの人は、そのような凍結を甘く見ているんじゃないか。世の中には複数の時間が流れていて、数多くの凍結された問題がある。米ソの冷戦だってとっくの昔に終わったと思われていたのが、いまになってウクライナ侵攻という形で噴出したのは、その一例です。ロシアや中国には西側と違う時間が流れている。インターネットだけが悪いわけではないけれど、アテンション・エコノミーはそのような時間の複数性への想像力を失わせるものだと思います。

樋口:そうですね。僕の中にも凍結されたものは確実にあるし、だからこそ文章を書いているんじゃないかと思います。フィクションを経由してなにかを解凍させるために書いているというか。自分の中でそのまま放置していたら、社会的に非常に悪い形で出てしまうような欲求や欲望、毒性のようなものを別の形で表すことで、ギリギリ生きているような感覚があります。

福嶋:犯罪に収斂していかないような、もっと変わった形の凍結もあるわけですからね。そういうありさまを描くのに、文学は有用ではないかと思います。というのも、文学は何が事実として起こり、何が起こらなかったか。その境界が曖昧になっているところを書くのが本領だと思うんですね。例えば、道行く人に「日本の原発はいま稼働しているのか。動いているとして何基ぐらい動いているのか」という質問をしたとして、正確に答えられる人は少ないと思うんです。つまり、原発の是非をどうこう言う前に、もっと基本的なレベルで我々の認識はひどく曖昧になっている。そういう領域こそが、文学の得意とする部分だと思います。

 それは批評とも大いに関わります。文芸批評はもともと、さっき言った18世紀のシュレーゲル兄弟やノヴァーリスなど、ドイツのロマン主義で評価されるようになったものです。彼らの理論のキーワードは「アイロニー」です。ものすごく強引に喩えると、アイロニーとは量子コンピューターの計算のようなもので、オンとオフが同時に重ね合わせになっているような状態ですね。そういう二重の重ね合わせを前提として計算していくのが、小説というコンピューターで、その真髄はアイロニーにある。この本でも取り上げている古井由吉などは、老いや病や不眠症といった問題と絡めて虚実のあわいを書いているけれど、こういう小説のアイロニカルな未決定性は、原発が稼働しているのかどうかもよくわかっていない我々の状況を描き出すのに適していると思います。

樋口:人間の意識というか、脳内の情報のほとんどは言語的に表現できないもので、いま僕が話していたり、小説に書いていたりすることは相対的に妥当と言えそうな言葉が選択されているに過ぎないので、言葉がオンでありオフであるという状態というのは感覚的にも理解できます。言葉は思考の結果だけれど、思考そのものであったり、意識そのものではない。だからこそ、虚実の入り混じった状況を描けるのでしょうね。また、文字で書かれた小説というものは、読者の意識をハックするというか、読者によってまた別のイメージが喚起されるものであり、そこで生まれてくる意識はテキストそのものよりも情報量が多く芳醇なのだと思います。

福嶋:そうですね。読む行為にはそもそも穴が空いているわけですね。文章のすべてを緻密に読み切ることなんて不可能なので、どうしたって理解は穴だらけになる。だけど、その穴だらけの理解を重ね合わせてゆく中で、読者の幻想がなんとなく創造されていくし、それは良くも悪くも作者の意図を超えてしまうわけですね。ただ、読む側はどうしようもなくいいかげんだからこそ、せめて書く側はリニアにきちんと構築しないといけないとは思います。

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