「浦安には新しい魚食文化のスタイルが渦巻いている」 鮮魚泉銀三代目・森田釣竿が語る、浦安と魚のディープな魅力

 千葉県浦安市の人気鮮魚店「泉銀(いずぎん)」の三代目店主であり、魚と海をコンセプトにしたフィッシュロック・バンド「漁港」の包丁&ボーカルでもある森田釣竿氏(https://twitter.com/tsurizaomorita)。

森田釣竿『魚食え!コノヤロー!!!』(時事通信出版局)

 「日本の食文化を魚に戻し鯛!」を合言葉に独自の活動を展開し、魚の解説や浦安の街ロケ番組などでテレビ出演も多い彼が、初の著書を刊行した。あまりにもド直球な本人の決めゼリフをタイトルにしたその本『魚食え!コノヤロー!!!』(時事通信出版局)では、魚のさばきかた、丸ごと美味しく食べつくす方法が、多数の写真とともにわかりやすく紹介されている。また、祖父の代から魚屋と漁師という水産系DNAを受け継ぐ一方、バンドマンにもなった個性的な半生をふり返っている。取材では魚への熱い思いに加え、世間があまり知らない東京ディズニーランド以外の浦安についても、森田氏に語ってもらった。(円堂都司昭/6月7日取材·構成)

ものごころつく頃には埋立が進んで気軽に海に入れなくなってた

森田釣竿氏

――東京湾に面した浦安は、今では千葉県なのに東京ディズニーランド(1983年開業)がある場所として全国に知られていますけど、かつては漁師町でした。でも、川に流された工場排水によって浦安沖の漁場が被害を受けた。そして、海面の埋立事業が進む一方、地元の漁業組合は、1971年に漁業権を全面放棄した。森田さんが生まれたのは、その3年後。

森田:俺は1974年の生まれですけど、当時の街は今とまったく違ったんですよ。俺は、浦安を日本の縮図ととらえてるんです。黒い水事件(1958年。公害に怒った漁民が排水を流した本州製紙(当時)の工場に乱入した)があったり、アメリカの象徴のようなディズニーランドができたり。昔から住んでいる人たちもいれば、埋立地に引っ越してきた人たちもいる。幸いなことに東京ディズニーランドは、オリエンタルランド(三井不動産と京成電鉄が大株主)が運営してきて日本人が稼いでいる。だから、過去にこの街に起きたことを悲観するのではなく、一つのモデルケースとして盛り上げていけないか、明るい未来があるのではないかと考えているんです。

――『魚食え!コノヤロー!!!』には、森田さんの母方の祖父が「泉銀」の創業者だと書かれています。

森田:名前が泉澤銀蔵だから「泉銀」。祖父の親父以前も、屋号は違うんですけど、ずっと魚屋でした。

――で、父方の祖父は漁師だったとか。

森田:浦安で獲れた貝を浅草の方まで売りに行っていたんです。父方は漁師、母方は魚屋という、ガチな水産系DNAを受け継いで生まれてしまった。戦国時代に生まれてたら活躍できたのにと思うような、“時代にズレた”感てよくあるじゃないですか。俺は正にそれ。自分が小さい時、屋形船に親戚が集まってハゼの天ぷらを揚げてよく宴会をやっていたんです。今みたいなきれいな船じゃなくて、汚い船で沖へ出て、大人たちの会話を聞いていた。「あそこらへんでよく蟹が獲れた」とか「あそこによく漁の仕掛けをしたんだ」とかいいながら指さす方向が陸上なんです。まだ子どもだったから、なにをいってるんだろう? って思ったけど、その人たちは漁師だったんだと、だんだんわかってきた。すると、やっぱりうらやましいの。俺がものごころつく頃には埋立が進んで気軽に海に入れなくなってたし。

――東京メトロ東西線の浦安駅周辺がかつて漁師町だった地域ですけど、この路線が開通した1969年当時の沿線は、現在みたいな住宅密集地ではなく、田んぼばかりでした。

森田:俺の小さい頃もまだそんな感じだったけど、小学2年生くらいから浦安の様子が変わってきた。駅前にスーパーの西友が1979年にできた後、地元初のコンビニとなるセブン-イレブンがオープンして、マクドナルドやケンタッキーができて、地元の人間も飛びついた。それまではけっこう渋いものを食ってたのに、みんな、新しい食べものの方へいった。それまでハンバーガーなんて食ったことなかったんだから。それだけ田舎だったんですよ。

泉銀に並ぶ鮮魚

――その頃、「泉銀」は駅近くにあった浦安魚市場で営業していました。市場というと公設が一般的ですけど、ここは各店舗の出資で運営する協同組合。いわば、個人商店の集まり。

森田:市場では魚が売れなくなるなか、俺が中一の時、祖父が亡くなったんだけど、大人たちが金でもめてる、泣いてるのが怖くて。おじいちゃん子だったし、それが衝撃でした。スーパー、コンビニ、ファストフードが当たり前になるにつれ、浦安魚市場の入場者数が減ってお客さんが遠のいていった。豊かなんだけど焼野原に生まれちゃったような感覚。ずーっとそう思ってました。切なかったですよ。

――1983年にオープンした東京ディズニーランドへ全国から大勢の客が訪れる半面、地元ではそんなことが起きている。80年代には、ビートたけし出演、テリー伊藤演出のバラエティ番組『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』が、寂れた商店街を盛り上げる企画をやっていて、浦安のフラワー通り商店街もとりあげられました。そこには、たけしの顔をした招き猫人形などを売る番組のタレントショップも作られ、一過性のブームでしたけどにぎわいをみせていた。

ブームとなったたけしの招き猫

森田:よく覚えてます。うちにもありますよ(といって、店に飾ってあったたけし招き猫を持ってくる)。あの時は人手がすごくて、とにかくにぎやかだった。ディズニーランドができて、フラワー通りが竹下通りみたいになって、どうなるんだろうと思った。これから浦安がよくなるのかなって、楽しかった。だけど、街はよくなるんだけど魚市場は不景気で、うちも大変なことになった。俺の人格は、それで形成されちゃったようなもんです。

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